【昔の写真】かつて入場有料でホームレスを締め出していた、塀の中のオアシス「天王寺公園」(2007年)

当記事は2007年時点の天王寺公園の様子をお伝えする内容の記事です。現在は全面リニューアルされ全く違う公園に生まれ変わっております。かつての天王寺公園の悲惨な姿を記録するために公開を続けているものです。

日本でも恐らく、ホームレス排除の為だけに周囲を柵で覆って出入りできなくした公園というのはここだけではなかろうか。そんな「天王寺公園」の中に入ってきました。

開園時間は午前9時半から午後5時まで。夏季は夜8時まで延長している。公園への入場料は150円だが、隣接する天王寺動物園との共通券が500円で販売されている。

入場ゲートをくぐると、さっきまでの無法地帯っぷりとは180度違う別世界に変わった。ホームレス排除の公園として一部には非難されまくっている公園だが、こうでもしないと風紀を保てないのが天王寺という街の悲しいところ。

天王寺公園のはじまりは、明治36(1903)年にこの地で開催された「第五回内国勧業博覧会」の跡地整備からだった。西側一帯が「新世界ルナパーク」、そして東側一帯が天王寺公園として明治42(1909)年に開園した。

既にこの時代から、労働者の街「釜ヶ崎」は存在しており、公園の周辺には常日頃からホームレスがたむろしていたという。釜ヶ崎の成り立ちもまた「内国勧業博覧会」開催に伴うスラムクリアランスで、現在の日本橋電気街がある辺りが当時は「長町」と呼ばれており、スラム街を形成していた。そこにあった木賃宿を現在の「釜ヶ崎」に強制的に移転させたという経緯があるというのだ。

公園内のホームレス小屋で「青空カラオケ」が行われていた時代も昔の話だが、天王寺公園の入り口付近には多くのホームレスや行き場のない暇そうなオッサン達が「青空将棋」に明け暮れている風景が見られる。なぜかよく犬を飼ってるのを見かけますけど…

天王寺公園内にでっかくそびえる像は、第6代大阪市長・池上四郎の像。天王寺動物園の生みの親でもある。福島県会津地方に生まれ、大正2(1913)年から3期10年間、大阪市長の座に就き、近代化・工業化に伴う大阪市の発展に寄与した人物だ。大阪市長の職を辞してからは、当時日本統治下にあった朝鮮へ赴き、昭和2(1927)年に第6代朝鮮総督府政務総監の座に就くが、わずか1年少々で病に倒れ、東京にて没する。

ここにあるものは池上の死後、当時の市民の強い信望によって建立された像である。
今の大阪、銅像を建ててもらうまで市民に支持される市長なんかおるんやろか?

公園内で一際目立つガラス屋根の建物は、「天王寺博覧会」開催で唯一現存する「テーマ館」。

博覧会終了後は植物温室として使われている。

大阪市では公園内の管理は全て「ゆとりとみどり振興局」の正規職員があたっている(2007年時点)。職員の制服にもしっかり「OSAKA CITY STAFF」と書かれてますよね。

しかし、散々批判の的になった市職員の厚遇問題、あまりに高い人権費…じゃなかった人件費が市政を圧迫しているため、指定管理者制度を導入し、長居公園や八幡屋公園など一部の公園で指定管理者を募集し、公園管理事業を民間に移譲させる予定でいる。

何気ない公園の売店にまで、他地方の人間から見ると非常識極まりない運営がまかり通っていたのが大阪市。大阪城公園のたこ焼き屋が巨額脱税をしていたり、枚挙にいとまがない。

あと公園内には「慶沢園」という日本庭園もある。大正7年、大阪では知らぬ者はいない天下の財閥・住友家の本邸庭園として作られたものだが、大正10年に庭園は隣接する茶臼山の敷地と一緒に、美術館建設のために大阪市に寄贈されたという経緯がある。この庭園のすぐ裏手には戦後在日コリアン寺と化した「統国寺」がある。

大阪市立美術館もまた住友家本邸の敷地に建てられ、慶沢園や茶臼山とともに大阪市に寄贈された。常設展示されているものだけでも、日本や中国を中心とした約8000点の収蔵品があり、その多くが市民からのコレクションから寄贈、もしくは購入されたものになる。この美術館ができたのも、市民の力によるものが大きいということだ。


The following two tabs change content below.
DEEP案内シリーズ管理人。大阪ベイエリアの貧民窟育ち。独自のひん曲がった視点で街歩きを続けております。2008年より上京。関西に留まらず全国、海外に取材対象を薄く広く伸ばして来ました。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。
トップへ戻る
Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.