大阪市内最大のターミナル「梅田」を擁する大阪二大都心の一つ・キタ、近年は大阪駅のリニューアルや「うめきた」地区の再開発でますます進化を遂げつつある。だがその一方で梅田の街には様々な裏の顔もある。
JR大阪駅の南側一帯に、少しばかりかかなり年代の入った4つのオフィスビルが見える。「大阪駅前ビル」である。ここは当時の大阪市都市開発局の計画で、昭和45(1970)年~56(1981)年までの間に大阪市北区梅田一丁目、「ダイヤモンド地区」と称されていた広大な再開発エリアに次々と建設されたビルである。
特に34階建て、高さ142メートルの「大阪駅前第3ビル」は大阪ビジネスパークのTWIN21ビル、同じ梅田の吉本ビル(ヒルトン大阪)が建設された昭和61(1986)年までは大阪一の高層ビルであった。
だが、どのビルも建設されてから40~50年近くの歳月が過ぎている。インバウンド景気に湧きオフィステナントの需要が高まって、テナント空室率がゼロに近いと言われている大阪市内だが、この古びたビル群は駅近物件にも関わらず割と不人気らしく、実際に賃貸オフィス情報サイトを見ると空き物件が大量に見られる。
特に一番最初に建てられた「大阪駅前第一ビル」に至っては大阪万博と同じ昭和45(1970)年の生まれであり、既に完成から半世紀近い。老朽化で解体…という流れになるのもそう遠い将来の話でもなさそうだ。この第一ビルには後述する超有名喫茶店があるんですが…
大阪駅前ビルを含めた「ダイヤモンド地区」の再開発事業には裏話がある。これらのビルが建てられる前にこの場所にあったもの、それは戦後間近の闇市の時代から残る、当時は「第三国人」と呼ばれていた、朝鮮半島や台湾出身者を中心としたアウトローによる不法占拠され作られた闇市のバラックだった。大阪市の行政は、何食わぬ顔で人の土地に居座る彼らに対し多額の立ち退き費用を血税から支払い、これらのビルを建設した。
パチンコ屋の景品交換所とサラ金店舗が隣り合う駅前一等地ビル
そして現在もそれらのビルがパチンコ屋やサラ金だらけというのが滑稽でならない。そんな建物と同じ場所に、地方公共団体の事務所やハローワークなどの公的施設が同居している。ある意味、大阪駅前の一等地にこれほどまでのカオスな状況が残ったビルがある事自体、奇跡という他ない。
パチンコ屋の景品交換所とサラ金店舗が隣り合っているという壮絶な図が見られる大阪駅前ビルの本気っぷり。パチンコに勝ったら左の窓口へ、負けたら右の窓口へ、いらっしゃーい。
そしてこのビル内には大手のアコムやプロミス、レイクといった馴染み深いサラ金会社ではなく、ろくに聞いた事もないような名前の消費者金融会社の事務所がいくつもある。「クレジット ポテト」のマスコットキャラクター、世の中のとてつもない深淵を感じさせるゆるさだ。
他にもアラジンだとかバナナだとか、いろんな「聞いたことないよ!」系キャッシング会社が揃っているんですが、一体このような店舗でどんな人がお金を借りるのでしょうか…
元々闇市上がりの土地でボロい木造家屋と店舗が密集していた一画を立ち退かせてオフィスビルの中にぶちこんじゃったものだから、店舗構成がそこはかとなくオッサン臭い。雀荘だとかゲームセンターだとかチケット屋だとかがうじゃうじゃある。
どこかで見た事があるなと思った人、東京にもありますよね「ニュー新橋ビル」とか。この大阪駅前ビルはアレの関西版なんですね。オヤジビルと呼ばれるニュー新橋ビル同様、胡散臭いDVD屋とか、一部オジサンの欲望がモロ出しな感じになってしまっているテナントも散見。
そうなったら「あかひげ薬局」なんかもしれっと入っていたりする訳でして、ここで元気になる薬をこっそり買っているお父さん達がたくさんいるのでしょうが…
大阪駅前第一ビルの地下にある「喫茶マヅラ」はレトロフューチャー系ゴージャス純喫茶では全国区の知名度を誇る超有名店である。この店も終戦後の闇市の時代からあった老舗店で、このビルが完成し移転してきた昭和45(1970)年から内装は変わっていない。オーナーは日本統治時代の台湾から大阪に渡ってきた劉盛森氏という人物である。数年前のニュース記事には「94歳で現役」とあった。
飛鳥会事件の舞台でもあった大阪駅前ビル
また大阪駅前ビルの地下にある「喫茶あすか」および「サウナあすか」(閉店)は、大阪市の同和行政における一大スキャンダルとなった「飛鳥会事件」の中心人物であった、財団法人飛鳥会理事長(当時)の小西邦彦(故人)が経営していた店舗だった。喫茶店は現在経営者が別になっているようだが、営業自体は続いている。
小西は権利関係の複雑な大阪駅前の闇市において土地交渉を取りまとめた事から大阪市政に対して大きな発言力を持つに至ったとされる。これまでありとあらゆるアウトローがこの土地に関わってきたのだろう。小西は大阪市政を食い物にしてきた大物フィクサーとして許永中と並ぶ人物だったが、飛鳥会事件の判決後に病死した。「サウナあすか」は裏社会のフィクサー達の社交場でもあった。ここにはかつて許永中も出入りしていたという。
あなたは知っているか、日本の法律を変えた「梅田村事件」を
このような闇歴史を残す梅田一丁目「ダイヤモンド地区」一帯のド真ん中にあって、一つだけ例外がある。終戦直後の無法状態の第三国人の不法占拠を力で押し退けた人物がいた。かつての「大阪マルビル」オーナーだった吉本晴彦氏、またの名を「ドケチ社長」という。“ああ勿体ない勿体ない勿体ない”をお題目にする「大日本ドケチ教」の教祖で、サントリーの鳥居会長、森下仁丹の森下社長と合わせて関西財界では「大阪の三ケチ」の異名で呼ばれていた、関西では相当有名な人物である。
大阪梅田の大地主だった吉本氏が、大空襲で焦土と化した自分の土地を戦後のドサクサで長らく不法に占拠されていた最中、吉本氏は60人もの建設会社の労働者を率いて、ブルドーザーを使い強制的に不法占拠のバラックを破壊、撤去したのだ。これを「梅田村事件」と呼ぶ。昭和27(1952)年のことである。
後に吉本氏は警察に出頭し一時は逮捕される。取り壊されたバラックの住人側に起訴され一審では敗訴したものの、控訴審で「正当防衛」と認められ逆転無罪を勝ち取り、4年後の昭和31(1956)年に結審。「不動産侵奪罪」はこの事件がきっかけで昭和35(1960)年に新設されたものである。
当然土地の不法占拠には暴力団も絡んでいたが、そこは「力には力を」である。敢然と三国人ヤクザに立ち向かったことで吉本氏は自らの財産を取り返した。
それから20年余り経った昭和51(1976)年に、吉本氏が念願叶い「梅田村事件」の舞台となったその土地に建てたのが「大阪マルビル」なのである。吉本社長のマルビルはバブル崩壊後の業績不振で、現在は大和ハウス傘下になっている。だがその隣の西梅田再開発地区には、新しい「吉本ビルディング」、ヒルトンプラザウエストの建物が堂々とそびえ立っている。
なお、吉本晴彦氏は2017年5月30日に老衰により93歳で死去している。
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