消えた関西の新地…貝塚市「貝塚遊郭」と遊女の墓を訪ねる 

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貝塚市 遊女の墓

貝塚遊郭跡に続いてやってきたのは、市街地から南に10キロ程度離れた貝塚市郊外の山の中だ。水間鉄道の終点水間観音駅や阪和自動車道貝塚インターよりもさらに山奥である。こんな所に何があるのかとやや不安になったが、ここで間違いない。秬谷(きびたに)隧道というトンネルが目印だ。

貝塚市 遊女の墓

秬谷隧道を外れた迂回路に入っていく事になるのだが、その入口にしっかり「遊女の墓」と案内標識が立っているのだ。これは意味深過ぎますね。案内の通り、脇道に入っていく事にしよう。

貝塚市 遊女の墓

秬谷隧道の迂回路となっている道は離合不能な一車線路であるが、そもそもこんな街外れの山の中を通る車なんてまず居ない。昼間でも薄気味の悪い、忘れ去られたような土地だ。

貝塚市 遊女の墓

それでもしばらく歩くと人工物らしいものが車道脇の草むらに現れる。どうも昔は人が住んでいたらしい。ここから山奥にも隔絶山村が点在しているが、基本的に山を超えたらその向こうは和歌山県だ。

貝塚市 遊女の墓

しまいには廃屋まで出てきやがりました。玄関扉はぶち破られ、内部はことごとく荒らされている。これが地元のDQNの仕業なのか自然の風化がもたらした結果なのかは分からない。

貝塚市 遊女の墓

外側から丸見えになった廃屋の中をじっくり見ると、かつての家人の私物と思しき書籍類が散乱していたりする。遊女の墓の墓守りでもしていたのかも知れないが、ここの家人も今ではどこかに行ってしまったようだ。

貝塚市 遊女の墓

そんな哀れな最期を迎えた廃屋と運命を共にするかのように、我々が探していた「遊女の墓」があった。こんな無人の山の中になぜ一つだけぽつんと遊女の墓があるのか…

貝塚市 遊女の墓

誰も訪れなさそうな場所だと思ったが、遊女の墓に備えられた花束は真新しく綺麗だった。供え物にはサクマ式ドロップス。仏様の姿が描かれた墓石には「遊月信女」の戒名が記されていた。文化十年と書かれているので、西暦に直すと1813年。ちょうど200年前だ。その頃から貝塚遊郭があったらしい。

貝塚市 遊女の墓

傍らに置かれた案内看板が英文併記で何ともご親切に、ここで祀られている遊女のプロフィールを説明している。「文化年間、この地で非業の死を遂げた遊女、千代の墓と伝えられている」とある。遊女の千代は山を超えた先の紀州の出身で、昔この道は貝塚と紀州を結ぶ街道だったと。

貝塚市 遊女の墓

「遊女千代の墓再建寄附者芳名」の石碑もある。かなり沢山の人達がお金を出し合ってこしらえたもののようだ。

貝塚市 遊女の墓

墓の近くにはそんな遊女の千代が自分の顔を川面に映して見つめたという川に掛かる橋がある。欄干もまともにない小さな橋だった。ほんの少し地面に出ている欄干には「日合橋」と文字が刻まれているのが僅かに見えた。

貝塚市 遊女の墓

遊郭での仕事で病気に掛かった千代が郷里に帰る途中、この川を覗きこんで見えた自分の顔に絶望して、断食の末に自ら命を断ったという悲しい伝説。遊郭の世界にはつきものの不幸に生きた女の人生の一コマである。そんな不幸に生きて人知れず生涯を閉じる女性が存在する事は戦後に売防法が施行されようが、今の時代でもあまり変わりがない気がするんですがね。


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DEEP案内シリーズ管理人。大阪ベイエリアの貧民窟育ち。独自のひん曲がった視点で街歩きを続けております。2008年より上京。関西に留まらず全国、海外に取材対象を薄く広く伸ばして来ました。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。
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