今更だけど知っておきたい日本最大のコリアタウン「鶴橋」という街をざっくり説明する (2016年版)

大阪市生野区

島国である日本では、外国人観光客が当たり前のようになった現在を除いては元来は民族の多様性に乏しく、黒船の時代と比べてもまだまだ日本人の外国人に対する免疫や英語力というのはなかなか進まない。そんな国にある外国人コミュニティのうちで比較的歴史と規模がある代表的なものと言えば、戦前に日本に併合された朝鮮半島から出稼ぎ等でやってきた在日コリアンの存在。

日本では単に「在日」と指すだけで「在日韓国・朝鮮人」という意味合いになるほど、日本社会と深い関わりを持ってきた。また、一部の在日コリアンは戦後を中心に民族差別といった事象を背景に暴力団等の日本の裏社会やパチンコ・芸能といった娯楽産業に根深く入り込んでいる事もよく知られている。東京では新大久保、三河島などが有名なコリアタウンだが、日本で最も大規模な韓国人街は大阪市生野区の鶴橋である。

鶴橋・猪飼野は日本最大の在日韓国・朝鮮人街

鶴橋は大阪市街地の東側にあり、JR大阪環状線、近鉄大阪線、地下鉄千日前線でアクセスできる。駅のプラットホームに降り立った瞬間に鼻を掠める肉を焼く香ばしい匂い…もしあなたが某国の工作員に拉致され目隠しされた上にここに連れて来られたとしても、嗅覚だけでこの場所が恐らく鶴橋駅だと分かるはずだ。


大阪市 生野区 鶴橋

生野区の在日コミュニティの成り立ち

この地域に在日コリアンが集住し始めたのは日韓併合後の1920年代、大阪が工業都市として「東洋のマンチェスター」と形容されるほどの発展を見せていた時期に労働者として渡ってきた朝鮮人が最初であると言われている。またこの時期には済州島と大阪を結ぶ直行便が就航されていた為、とりわけ済州島民が多く大阪に渡ってきたとされる。当初の在日朝鮮人の出身地はその多くが慶尚道・済州島であったそうだ。


大阪市 生野区 鶴橋

生野区の在日は殆ど済州島出身者

その一方で、旧平野川(百済川)が度々水害に見舞われていた事から、現在の真っ直ぐな流路を持つ新平野川の掘削が進められ、その時に朝鮮人労働者の飯場が出来た事が生野区に日本最大の在日コミュニティが生まれたきっかけになったとされている。もっとも、昭和初期には現在の大阪市東部、旧布施市域が都市部拡大で発展し、現在のような町工場が立ち並ぶ街並みの基礎が作られていった訳で、この地域の在日朝鮮人人口の増加のきっかけは複数の要素が絡んでいるのだ。

また戦後に多くの在日朝鮮人は日本の統治から外れた朝鮮に戻ったが、済州島民は1948年に起きた島民虐殺事件(済州島四・三事件)から逃れるように、密航船で再び住み慣れた日本に渡ってきた。この事から大阪・生野区のコリアタウンに暮らす在日コリアンの出身地は殆ど済州島出身者である。



大阪市 生野区 鶴橋

百済の渡来人が豚を飼っていたから「猪飼野」

またそれ以前にこの地域は百済郡と呼ばれていて、古代朝鮮の百済からの渡来人が多く住む土地でもあったという。その名残りは東住吉区にある百済貨物駅に見られるが、そうした百済の渡来人が豚を飼う技術を持っていた事から「猪飼野」の地名が生まれた。旧東成郡鶴橋町の大字名として戦後まで使われたが、昭和48(1973)年の住居表示実施で猪飼野の地名は住所として使われる事は無くなったが、一部地名表示板や交差点名に「猪飼野」の表記が見られる。


大阪市 生野区 鶴橋

鶴橋地名発祥の地は日本書紀由来の「日本最古の橋」

鶴橋の地名発祥の地である「史跡つるのはし跡」が生野区桃谷3丁目22の、旧平野川跡で疎開道路沿いの一角に置かれている。日本書紀に記されている「仁徳天皇が建てた日本最初の橋」とされる猪甘津橋(いかいつのはし)が当地にあり、江戸時代には鶴がよく飛んでいた事から「つるのはし」と呼ばれるようになり、それが鶴橋の地名になったというのだ。旧平野川は昭和15(1940)年に埋められ新平野川に切り替えられた後「つるのはし」も廃橋となった。

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