【てんのじ村】西成区山王・忘れ去られた大阪の文化遺産「上方演芸発祥之地&旅館明楽」

大阪市西成区

ひたすらドヤ街と安宿街、飛田新地のイメージばかりで語られる西成・釜ヶ崎とその周辺の界隈だが、この土地は数々の大阪土着文化を生み出している事も見逃してはならない。

地下鉄動物園前駅から天王寺方向に少し歩いていくと、阪神高速の高架下を越えたところに、ちょっと気になる一画がある。古ぼけた一軒の旅館と、昭和風情たっぷりは質屋の看板、さらにはその下にある、明らかに背丈以上はありそうな大きな石碑。

金網で塞がれた「上方演芸発祥之地」の石碑

その一画に近づいてみることにする。何やら物々しく金網で遮られた空き地の中に立派な記念碑が建立されているのが目につく。その碑には「てんのじ村記念碑」と書かれているのが読める。

この場所は「上方演芸発祥の地」。戦前から芸人や漫才師が集い暮らしていた場所として「てんのじ村」と呼ばれ親しまれていた。戦後もこの場所は戦災を免れ、引き続き上方芸能の拠点として再興したなどと記す記念碑なのだが、すっかりホームレスの街と化した現在の西成では想像も付かない。

石碑を取り囲む神社の玉垣のように並べられた碑には協賛者の名前と思しきものが多数刻まれている。芸能関連にゆかりのある碑なので、関西ローカル民放局四局の名前も仲良く横並びで置かれている。金網で塞いでいるのは、恐らくホームレス除けなのだろう。


この石碑の建つ場所は西成区山王になるが、元は東成郡天王寺村であって、天王寺駅や天王寺公園、四天王寺、阿倍野再開発地区などと同一のエリアだ。阪神高速松原線の阿倍野入口から見える場所にもあり、何かとひと目にはつきやすいはずの場所なのに、随分とぞんざいな扱いを受けている不遇の石碑。文化軽視も甚だしい。

石碑の台座部分に記されている文を書き起こす。昭和52(1977)年に建てられたもののようだが、今ではあまり使わなさそうな難しい日本語がちょいちょい混じっている。

仏法最初、荒陵山四天王寺に由来する天王寺村は、また文化芸能淵叢の地でもあった。往昔、北は生国魂より南は天神森紹鴎社に及ぶ広大な地域を占めていたとされる。現在の通称「てんのじ村」は、まさにその中心の地に当たる。昭和二十年の戦災に奇しくも大被害を免れて芸能人の大半はこの地に結集、爾後、上方庶民の文化、演芸の再建、飛躍の拠点ともなった。今回、都市計画による地区改変に際し、縁故芸能人、地元有志ほか江湖の賛助を得てここに記念の碑を建立し事績を顕彰するとともに向後のより大なる発展を庶幾せんとするものである。

昭和五十二年十一月八日 吉田留三郎 識

てんのじ村記念碑の真横にある超絶ヴィンテージ旅館「明楽」

そんな「てんのじ村記念碑」の隣には随分年代モノの旅館が佇んでいた。「旅館明楽」である。この佇まいからすると、恐らく戦前からの建物ではなかろうかと推測する。当地は隣の石碑が物語るように、戦災から辛うじて逃れている。

玄関部分は閉ざされ、既に来客を受けている様子ではないのは、2007年に初めてこの場所を訪れてから今まで変わっていない。かといって取り壊される様子もないので、宿のオーナーは商売をやめて個人宅として使い続けているようだ。

古ぼけた…と言ってしまうのは失礼だが、それでありながら凛とした姿を2018年の現代でも保ち続けている、この旅館も街の歴史遺産として留めておきたい存在である。場所柄「連れ込み宿」だなんて言われていたりするのも、またミステリアスさを増しているが、今となっては知る由もない。

建物の外壁に仕込まれた飾り窓に書かれた一文『豪華な家具 明るい洋室』『氣樂できれいな日本間』…よく見れば旧字体である。しかしこの旅館、見た目には想像がつかないが洋室まであったのか。

見上げても惚れ惚れするようなモダンな丸窓がぽつり。同じく戦災を免れた飛田新地の一部の「料亭」もここと同じくらい古い建物がわんさかあるが、場所柄だけにみんな「臭いものに蓋」されて忘れられているというのが実に不運である。

旅館明楽の客用玄関は少し奥まったところにある。何度も宿泊を試みるために玄関口までお邪魔したが、最後は宿のおじさんに二階から「すいません、もうウチはやっていないので」と言われて断られてしまい、泣く泣く断念したのだ。

御休憩・御宿泊という表記の見られる料金表が玄関口に置かれているのも、連れ込み宿っぽさを放っている。こうした旅館の建物を文化財として保存するような動きには、さすがにならなさそうなので、せめて当サイトが外観だけでも写真に留めておく事とする。


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