生駒山地をぶち抜き大阪と奈良を最短距離で結ぶ近鉄奈良線の「生駒トンネル」。今も石切駅北側の住宅地の突き当たりに廃止された孔舎衛坂駅の遺構とともに残る。このトンネルの歴史は大正3(1914)年の旧生駒トンネル開通に遡る。
当時日本二番目の長大トンネルの建設にあたり工事の段階でも落盤事故で多数の犠牲者を出したり、開通後も度重なるトンネル内での車両火災で多数の死人を出している事から、心霊スポットとしての知名度ははるかに高い。
また旧生駒トンネルの工事には多数の朝鮮人労働者の姿があったというのは関西の在日の間ではよく語り草になっている話である。毎度こういう話になると極左プロ市民のバイアスが掛かるので話半分に聞く訳だが、今も石切付近の生駒山地に沢山の「朝鮮寺」がひっそり佇んでいる事も因縁の深さを感じずにはいられない。
微妙にカーブを描いた旧孔舎衛坂駅のホームのすぐ向こうに旧生駒トンネルの入口がある。新しい生駒トンネルを掘る事になったのは戦後高度経済成長期以降の大阪都市圏の急激な都市化によって輸送力増強の需要が生じたものの、トンネルの断面が狭すぎて限界があったからだ。
不気味なトンネルの入口の前に立つと、フェンスで遮られた開口部からは冷たい風が絶えず吹きつけている。霊場として信仰を深める生駒山地を貫き、数々の事故で命を落とした人々がいるトンネル…当取材班はさっぱり霊感ゼロな訳だが、それだけの因縁を聞いてしまうとさすがに背筋に鳥肌が立つ。
その入口には所有者である近鉄の警告看板。何人たりともこの先には足を踏み入れさせないという意思が感じられる。まさしく禁断の地である。24時間自動監視システムにより万が一侵入者がいても警察に通報されてしまう。
ただ2010年秋には近鉄創業100周年を記念して特別に旧生駒トンネルの内部を歩くツアーが開催された事もある(→詳細)。その時にトンネル内部に入れた人間以外、この中の風景は一切知らない事になる。
トンネル出口側から石切方面を望む。廃線跡だけがくっきり残ってはいるが周りは完全なる住宅地でその落差が激しい。ちなみに今の石切駅自体も鷲尾トンネルを開削した跡に移転されていて、新生駒トンネルが開通するまでは大阪方面に200メートルずれて存在していた。
トンネル付近の石組みは約100年前に作られた当時のものがそのまま残っていて生々しい。この孔舎衛坂駅が廃止される前までは鷲尾駅、日下駅と何度も駅名が改称されている。
続いて駅ホーム付近の様子を見る。45年以上前に廃止された駅ホームがそのまんま残っているというのがある意味貴重に思える。白線の跡までくっきり。
生駒方面ホームの跡を見るとすぐ向かい側に民家が立ち並んでいるのが見える。周辺の地名は東大阪市日下(くさか)町で、大昔には「孔舎衛村」と呼ばれていた。駅名の孔舎衛坂にも通じているのだが、今や消えてしまった地名だ。
駅ホームの土台部分をよく見ると、後寄りの一部分に明らかに後からホームを拡張した跡が見られる。この駅があった頃から生駒や奈良方面は既にベッドタウン化が始まっていたのだろうか。
拡張されたホームの真下には古い階段がそのまんま残されていた。どちらにしても今では完全に役目を終えてしまった。
駅ホームから少し離れた所に近鉄の変電所が見える。この建物もトンネルに負けず劣らず相当古い。