大阪で、いや日本で最もDEEPな街として槍玉に挙げられる大阪市西成区のドヤ街・釜ヶ崎。その釜ヶ崎のランドマークとして長年、南海新今宮駅前にデデーンと大きくそびえていた「あいりん総合センター」。大阪万博に湧いた昭和45(1970)年に建てられた、ドヤ街釜ヶ崎の日雇い労働者の雇用と福祉を司る公共施設である。
地上13階、地下1階、この建物は大阪社会医療センター附属病院や市営萩之茶屋住宅などが合わさった施設になるわけだが、この街の性格を決定付けるかの如く要塞のような厳しい佇まいで鎮座していた建物もいよいよ“老朽化”を理由に、その一部である日雇い労働者やホームレスの溜まり場にもなっていた「あいりん労働福祉センター」が2019年3月31日に閉鎖された。
日本最大の寄せ場・釜ヶ崎の“センター”が姿を消す時
南海新今宮駅の改札を降りて目の前の小便臭い連絡階段を降りた先にある、この建物を前にすると、時代は変わってもドヤ街・釜ヶ崎特有の空気は変わる事がないと肌身に沁みて感じるわけである。当方も「大阪DEEP案内」開設から12年を迎え、この場所はとりわけ重点的な定期観察スポットの一つとして幾度と無く足を運んできた。
今年4月以降、日雇い労働者やホームレスが溜まっては寝泊まりしていた建物の1~4階部分(あいりん労働福祉センター)が閉鎖される事から、労働者団体らによる反対運動も巻き上がっている一方で、5~8階にある「大阪社会医療センター附属病院」は移転先となるすぐ南隣の萩之茶屋小学校跡地での新築工事が終わり開院する2020年12月までの間、この場所で診療を続けている。
我々が訪れたタイミングというのが、ちょうど職安の施設が閉鎖される予定だった時期を過ぎた4月始めだったのだが、昔から「寄せ場」として日雇い労働者を運ぶワゴン車が朝も早よからズラリと横付けされる風景が見られた一階部分はいつも通り、この様子である。閉鎖されたと聞いていたのに、シャッター開いたまんまですやん。
実際のところは4月を過ぎても施設は閉鎖されておらず、“センター”の閉鎖に反対して館内に居座っている日雇い労働者やホームレスが多数いる状況だった。すぐ上にある病院の移転は2年後なのに、センターだけ先に閉鎖して、日雇い労働者を追い出すのが行政の仕打ちかい!?と、反対派のプロ市民グループがお怒りになっている模様だ。
我々がこの場所を観察してきた12年間で、この“センター”に溜まっている日雇い労働者やホームレスの様子に変化はあったかどうかを判断するも「そのまま高齢化した」風にしか見えない。この建物は階上の病院が移転する2021年以降解体され、その6年後に新しい労働福祉施設に建て替えられるという。
一部には市橋達也被告(市川市英国人女性殺人事件)のように指名手配犯が逃亡中に仕事を探しに来るケースもあるにはあるが、“スマホで派遣バイト”が定着している若い世代がこんな陰気臭い場所に仕事を探しに来るはずもない。昔以上にこの街の平均年代は高齢者ばかりになっている。
高齢化した日雇い労働者は過酷な肉体労働に耐える事もできず、やがては生活保護の頼りになるのがオチである。しかしいざ生活保護となると行政が絡んできて親族に連絡されたり色々面倒にも巻き込まれる。それを拒む一定数の訳ありな人間が数少ない「居場所」としてこの“センター”に寝泊まりしていたという実態がある。
旧センターの裏側の路地とか、旧萩之茶屋小学校の並びとか、南海の高架沿いに早朝現れる「泥棒市」も相変わらず健在だ。韓国から日本の偽タバコを輸入して売っていたアジュンマが居なくなるなど以前よりも業者の数がいくらか少なくなった気がするが、それでも違法に医薬品を販売していたりエロDVDやら出所不明のガラクタが大量に置かれている。旧センターが解体される頃にはこれらの違法露店も潰されるのかも知れんね。
また、現状では閉鎖されているのが「あいりん労働福祉センター」の部分だけで、病院も含めて階上の市営住宅にもまだ多くの住民が生活している模様だ。いずれは市営住宅の部分も別の場所に建て直されて、住民はそちらに引っ越す事になるのだろう。
で、既に移転後の「西成労働福祉センター」が旧センターの真向かいの南海電鉄の高架下で4月1日から事業開始している。見ての通りの真新しい建物がいつの間にかガード下にスッポリ収まっている。しかし元のセンターから見れば規模はかなり縮小された感もあるし、今までとは違ってここの開設時間外は労働者・ホームレスの方々はことごとく追い出される。
旧センターの閉鎖は労働者団体の反対運動でしばらく先延ばしにされていたが、これには大阪府知事・大阪市長のダブル選挙がすぐ先に控えていたのも要因の一つにあったようで、結局は選挙が一段落した同月24日に警察の機動隊員によって旧センター内に居座っていた人間達は追い出された。そしてシャッターも完全に閉められたようだ。
ガード下には「南海電鉄は労働者排除に荷担するな!」と書かれた横断幕が括り付けられているのが見られた。新センターは南海電鉄の土地である高架下に建てられたわけで、南海電鉄までプロ市民団体の怒りの矛先となっている構図だ。でも、南海のガード下も数年前までの荒れっぷりに比べたら、随分綺麗になりましたよね。
センター閉鎖に全力抗議!釜ヶ崎地域合同労働組合(稲垣浩代表)がお元気です
新旧“センター”が向き合う南海の高架沿いの一角にはオレンジ色の「釜ヶ崎地域合同労働組合」の香ばしげな主張が記された幟があちらこちらに掲げられている他、不測の事態に備えてかヘルメット姿の警備員が何人も配置されていた。幟の文言には「西成警察は露店をいじめるな」「人間より放置自転車にやさしい大阪市」「市営住宅つぶすな」等々…
しかし「土方の根性見せたれ」と大阪弁丸出しで書かれた幟の隣にクソでかいお釜がデーンと置いてあるのを見ると結構じわじわと謎めいたインパクトを感じる。そりゃ釜ヶ崎ですもんな、身寄りの無い訳あり人間が集まって“同じ釜の飯”を食う…「釜」はこの街のシンボルですわ…
一部締め切られたシャッターにはダンボールで貼り付けられた抗議文が。「津波の避難所だから開放せよ」という主張まであるのは滑稽である。そりゃ大阪平野の大部分も縄文時代は海だったらしいですが、江戸時代に大阪を襲った安政大津波のレベルならここの3階くらい余裕で辿り着くんじゃないですかね?
ちなみにこの幟を置いている釜ヶ崎地域合同労働組合(釜合労)というのは、稲垣浩という運動家が委員長を務めている団体なのだが、 そんな稲垣氏、実は今年4月の大阪市議会議員選挙で西成区選挙区から立候補していたらしい。でも結果は最下位得票にてボロ負けで落選している。 現在74歳ですがお元気で何よりです。
稲垣氏は釜ヶ崎の一角に「釜ヶ崎解放会館」と銘打った、とんでもなくプチ九龍城砦っぷりを晒している魔窟ビルを所有していて、ここがまた香ばしい。この解放会館とやらも過去に約3300人もの居住実態のない人物の住民登録がされていた珍事件があったり、昭和の名ストリッパー・一条さゆりが晩年を過ごしていた場所でもあったりと本当に色々な出来事が詰まった建物だ。
ちなみに稲垣氏の「釜合労」ともう一つある「釜ヶ崎日雇労働組合」(釜日労)は別の団体だが、稲垣氏は釜日労を結成した人物でもあり、初代委員長でもあるが、ある理由で除名されて釜合労を立ち上げたということらしい。まあ、このへんも色々とややこしいっすね…相変わらずこの建物の一階にある「釜ヶ崎炊き出しの会」が三角公園・四角公園や旧センターの一階などで日雇い労働者やホームレスを対象に炊き出しボランティアをされているそうです。
「釜ヶ崎」誕生から一世紀、日本最大のドヤ街はどこへ向かうのか
関西空港から南海特急ラピート号で直結し、外国人観光客向けの安宿や観光地が集結するこの場所がある意味「大阪の顔」の一つと言えるわけで、そんな駅前がこんなにアンダーグラウンド極まりないのを大阪市の行政としては良いとは思っていないはずで、今後の2025年大阪万博開催のためにこの地域の「浄化」が加速するのは間違いない。星野リゾートのホテル進出や“センター”の解体、G20開催による飛田新地の異例の「営業自粛」もその流れの一つである。
そもそも今から110年以上前、明治36(1903)年に開催された「第五回内国勧業博覧会」を契機に今の日本橋でんでんタウン付近の堺筋沿いにあった長町スラムが「天皇の馬車を通す道にこのような見苦しいスラムがあってはならない」などと追われ、 長町の細民窟・木賃宿がその当時大阪市外の農地でしかなかったこの場所にごっそり移されたのが現在のドヤ街・釜ヶ崎の原点なのである。
そう、時代は変わっても、歴史は繰り返される。都市の「不都合」は事あるごとにその存在を脅かされるのだ。もはやドヤ街のドヤの大半が福祉住宅やバックパッカー宿と化した現在、高齢化した日雇い労働者の世代が居なくなる頃、この街はどう変わるのだろうか。日雇い労働者らにとっての「釜ヶ崎のランドマーク」が失われた今、その事を思わずにはいられない。