【河内長野市】南河内の奥座敷・河内長野駅裏にあった色街「長野新地」とは

大阪府南河内地域の最南端に位置する街「河内長野市」…大阪市内中心部、南海なんば駅から高野線で片道30分、ベッドタウンの趣きが強い地域だが、そう言えばこのサイトで一度も取り上げたことがない街である。

今回この街にやってきたのは、駅裏の一帯にかつて色街があったという噂を耳にしてのこと。最近この手のネタはご無沙汰していましたが、大阪の遊郭・赤線跡巡りもたいがいこなしてきたはずの我々でも、この河内長野は最後の最後まで来るきっかけがなかったのである。南海・近鉄が共同で使っている河内長野駅の東口へ…なんか急にショボい佇まいになるよな…

河内長野駅裏にあった「長野新地」とは

「長野新地」とも呼ばれていたらしい、その赤線跡、河内長野駅のすぐ駅裏一帯にあたる土地にあったという。早速そのへんを歩いてみる事にするが、まさしくこの場所も「駅前留学」ならぬ“駅前遊郭”とも言える好立地であるが、いま来て見ると駅前なのにしょぼくれた住宅地や雑居ビルが狭い路地に連なる程度。

かつてはこの駅裏あたりから既に新地の旅館街が連なっていたそうだが、それらの旅館は姿を消し、代わりに創研学院などという学習塾があったりする程度。ゲームセンターの店舗跡が塾生用駐輪場に使われている。河内長野の子供は割と真面目なんですかね。

遊郭・赤線跡巡りにおいては当該地域における古い地名が抹殺される事も「あるある」なので、だいたい電柱に貼り付けてあるプレートの地名を確認する癖がついてしまうのだが、そこにはカタカナで「チカン」の三文字が…ええ…「痴漢」じゃないですよね、まさか。

しかし、そんな雑居ビルの隙間から、かつての色街の残り香がかすかに漂い始めてくるのである。「料理旅館 八重別館」のアーチ看板が路地の入口に立ち、その先の下り坂へと来客を誘っている…

導かれるがままに路地に入り込む。看板の裏側を見れば「ありがとうございました」と感謝の言葉が。こういう展開も「あるある」でございますわね。この看板、かつては長野新地にあった旅館の案内図が掲示されていたらしい。

中程から階段となる下り坂の途中にはこのような古びた酒場も見られるというガチっぷり。「ニューニッカ」と書かれた小さな紫色の看板が見られる。かつての色街に行く人戻る人を見守ってきたかのように佇む。

さらに階段坂を下っていくと、いよいよ谷底を流れる「石川」に辿り着く。この先がどうやら色街のメインになる場所だったようだが…

そうこうしているうちに石川に架かる「黄金橋」のたもとへ。かつての新地の内と外の境界線、“いこかもどろか思案橋”的な存在だろうか。しかし長野新地は公許の遊郭だったというわけではない。昔はこの橋の上やたもとで客引きする女性の姿があったという事だが、橋の上どころか駅前からここまでただの一人も通行人とすれ違う事はなかった。

黄金橋の上から下流側の風景。当地はかつて「長野温泉」とも呼ばれる温泉街だった…そう言われると、まだほんのちょっと、温泉街の風情が残ってはいませんかね。戦後から昭和40年代頃までは温泉街として栄えており、非合法で「裏稼業」に勤しむ水商売の方々が沢山おられたとか。

すっかり色街の趣を失った長野新地。普通に宅地化しとるやないか

しかし、そんな色街だった土地もごっそり新興住宅地に変わってしまっていて見る影もないのが現実。今の温泉街はすっかり衰退を極め、せいぜい「河内長野荘」という温泉旅館が一軒あるのみで、あとは個人経営の数軒の料理旅館が細々と商売しているだけである。

おおよそ1990年代まではこの道の並びに非合法な商売を続けていた飲み屋が点在し、知る人ぞ知る南河内の裏名所だったとされる場所だったが、次第にそれも廃れていったようである。どこをどう見ても、完全なる住宅街。

三陽荘はじめ、古風な温泉旅館の残骸多数

そんな路地の突き当たりまで行くと、先程川の対岸で看板を出していた料理旅館「八重別館」の建物に行き着く。廃れた温泉街の最後の生き字引と言うべき存在なのだろうか。2018年12月現在宿泊可能である。

それよりも気になるのが八重別館のすぐ左隣にある、傾斜地に危うくそびえるこの風流な佇まいの旅館の建物だ。ここもまた「三陽荘」(みはるそう)という屋号の旅館だった。その一部に「和風すなっく 古都」が入居する形である。見るからに現役ではない。廃業している。

あまりに古風過ぎてタイムスリップ感半端ない「和風すなっく 古都」の看板。最盛期の長野温泉においては、規模は小さいものの、この一画に温泉芸者からモグリの女中までが揃い、秋にはまつたけ狩りの名所となっていた当地で、夜は別の“マツタケ狩り”が行われていたというオチか。それはもう、昭和を生きる男のリフレッシュスポットとしてさぞかし繁盛していたことを伺わせる。

さらに目の前の石段を登っていくと、古びた石垣の上に段々畑のように旅館の建物が奥へ伸びていくのが見られる。廃れてしまったとはいえ、そもそも大阪府内でこんな風情のある温泉地を他に知らない。川一本隔てているとは言えども駅前の良い場所なのに、この放置プレイっぷりはもったいない。

急峻な地形に沿って無理くり作られたアクロバティックな伝統建築に驚愕。一部、土壁がめくれている箇所も見られるが、崩壊せずに残っているのはある意味貴重ではあるまいか。

打ち捨てられ、見るも無残な姿になった「三陽荘」の看板。この様子だと廃業して30年も40年も経っているわけではないと推察するが、このへんはいつ頃商売を辞めてしまったのか、時期は定かではない。

旅館のすぐ裏の山ではタケノコも採れる、駅前なのに素敵な自然環境。南海なんば駅から片道30分そこそこでコレですからね。穴場感半端なくないですかね。

目の前の南海高野線に乗って高野山観光に訪れる外国人観光客を当て込んで、ここで商売を考える人間は現れないものでしょうかね。ちなみに南海河内長野駅は特急こうや・りんかんを含む全列車が停車する。地の利は良いはずなのに、スルーされるだけの街に成り下がっている。

そんな駅チカ物件なのに色々と廃れた町並みを見せる河内長野駅裏のかつての色街…実は長野新地は勃興を極めていた昭和30~40年代以前にも、そもそもは戦前の昭和8(1933)年にカフェー街として開発され、市内に点在していた如何わしいカフェー店舗を当地にかき集めて営業していたのが始まりで、戦後の売春防止法施行後も非合法店舗がのさばり長く続いていた、という事らしい。

当地は「長野温泉」と称される温泉地で、明治時代に「極楽寺温泉」として栄えて以来の歴史がある。阪南市の山中渓温泉のように温泉街自体が消滅してしまう悲惨な状態ではないのが救いだが、侘しいにも程がある。

三陽荘裏手の山道に入っていくと、その先にもだらだらと旅館や家屋の廃屋が河岸段丘の斜面の雑木林に点在する光景が見られる。しつこく言いますが、駅から徒歩3分でこの景色ですよ?野趣溢れ過ぎじゃありませんか、河内長野。

現在のところ、しっかりと体裁良く営業しているのはこちら「河内長野荘」くらいか。てっきり民間の旅館かと思いきや、2005年までは大阪府が運営していたらしく「エルサンティ河内長野荘」という名称が前身である。その後地元の河内長野市に移譲され、現在の運営者は「グルメ杵屋」だそうです。


The following two tabs change content below.
DEEP案内シリーズ管理人。大阪ベイエリアの貧民窟育ち。独自のひん曲がった視点で街歩きを続けております。2008年より上京。関西に留まらず全国、海外に取材対象を薄く広く伸ばして来ました。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。
トップへ戻る
Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.