【壊滅】京都のダークサイドお茶屋街「五条楽園」の中はこうなってました(2010年)

京都市

大阪に飛田、神戸に福原と、遊郭の名残りを残す街は関西に各所あるが、京都では「五条楽園」という所が有名である。かつては「五条橋下」「六条新地」「七条新地」という3つの遊郭が隣接していたものが大正時代になって合併し今の名に改められた。京都の花街としてよく知られる「先斗町」や「祇園」にも程近い「五条楽園」は京都最大級の遊郭として歴史を残している。牛若丸と弁慶でゆかりのある五条大橋から程近い鴨川右岸(橋の南西)の一帯に今も広がる。

京都の遊郭は「島原」など6ヶ所が存在していたそうだが、「現役」である遊郭ではこの五条楽園が最も有名な存在と言われている。京都駅からも歩いて来れない事はない距離にあり、徒歩およそ20分程度。最寄り駅は京阪電車の清水五条駅である。

京都駅方向から来ると、銭湯「サウナの梅湯」とその手前の高瀬川に掛かる橋と看板が五条楽園の入口となる。京都の市街地ではかなり中心部にあたる場所だが人通りも少なく昼間は不気味なくらいである。この銭湯の裏手に某指定暴力団の事務所がデデーンと建っている。雅やかな京建築の立ち並ぶ五条楽園の中でもいかついコンクリートビルが存在感を放つ。

ひとたび五条楽園の路地に入ると、明治・大正時代に建てられた古い遊郭の建物がそっくりそのまんま残っている。現在「旅館」の看板を掲げるこの建物も、和洋折衷型のモダンな造りをしている。戦災に遭わなかった京都ならではの光景である。

五条楽園の所々に「お茶屋」を名乗る店があり、そこが所謂ソレなのだとか。

しかしそういった店が堂々と玄関を開け放って「お兄ちゃん、可愛い子おるで、見てってや」などと遣り手ババアがうるさく声を掛けてくるような風景もない。お上品な京都気質なのだろうか?

そもそも五条楽園は飛田のように通り一面が殆どそっち系の店ばかりという訳ではない。普通に人が暮らす民家に混ざって若干数「お茶屋」が残っている程度だ。しかしどこか陰気臭い雰囲気が残るように思えるのは街の運命だからであろうか。


飛田が見るからにソレと分かるのとは対照的に、五条楽園の場合は表向きにはソレの存在を隠されている。客層も地元のオッサンばかりでよその観光客があまり来るような場所でもなさそうだ。

民家の脇のトタン壁に吹き付けられた絵が無駄に美しい。京都だからこそのセンスだろうか。

これぞ遊郭と言える京建築も数軒程だが残っている。独特な唐破風屋根が映える美しい建物だ。やはり京都まで来なければなかなかお目にかかる事のない建物である。

京都の市街地には古い住居表示看板が至る所に残っているが、すべからく「何々通何々入ル何々町」という表記になっている。街区が碁盤の目となっている京都ならではの住所表記だ。一応町名だけの表記も存在するが、京都市街においては重複する地名も多く非常に煩わしいので、結局「通」「入ル」「下ル」表記の住所の方が分かりやすいという罠。

同様の構造をした建物でそのまんま民宿になっている「旅館平岩」。元遊郭の建物で泊まる事ができる貴重な宿。設備が古いからであろうか、比較的リーズナブルな料金設定である。

五条楽園は鴨川と高瀬川の間の中州地帯にあるためか、地区内では車で通りぬけできない事を示す看板が掲げられている。これが東京向島なら「ぬけられます」なのにな。京都の人って他所もんにはホンマいけずやわ。

それでもそのまま鴨川のほとりに抜けてみると、そこにも一軒の「お茶屋」があった。昼間は全く営業している様子はなく静まり返っている。やはり賑やかなのは夜だけのようだ。

表向きには遊郭は廃止された事になっているが、ここに残る数軒の「お茶屋」では、夜な夜な置屋から芸妓さんが送られ、あとはチョメチョメ…といったシステムで「営業」が続けられているという。芸妓には熟女が多いらしいが…

五条楽園のお茶屋には組合があり、その取り決めで毎月「2、12、22日」と2のつく日が休みという事になっている。訪問時は要注意。

しかしそんな事情も、ふらりとよそ者が路地を歩いていてもまず気づく事はない。目の前に広がる鴨川の河川敷は変わらずゆったりとした時を刻んでいる。

もっぱら先斗町と祇園ばかりが注目を浴びる一方で、京都における色街の文化の原点とも言える五条楽園は寂れるに任せたような街並みが広がる。そのギャップがたまらない。京都ならではの都市の歴史が作り出した濃密な光と闇である。

唐破風屋根のいかにもな置屋に次いで多いのが、生活感のしない民家の存在である。いずれも玄関前の床にはタイルが敷き詰められているのが特徴だ。これらも所謂「お茶屋」となっている。

「孔雀」と示された店の玄関は新年の休みと言う事もあって固く閉ざされている。ここは床どころか壁までタイル張りだ。何故か遊郭建築に「タイル張り」というのはつきものである。外観を色とりどりのタイル張りにする事で見た目の華やかさや清潔感を演出するためだという話を聞いた事がある。

玄関口のタイル張りが非常に多く残っているのも五条楽園を散歩していて飽きさせる事のない重要な要素だ。

しかしそのタイル張りの遊郭建築も一部は普通の世帯が入居していて、東京・洲崎遊郭のそれと同じような状態になっている箇所もある。一般人の生活と夜の世界が混在しているという特殊性を持った街だ。

五条大橋近く、高瀬川の上から五条楽園の入口を眺める。看板が立っていなかったらここに京都最大の旧赤線街があることに気づくのは難しい。

高瀬川沿いには巨大な榎の木がある。随分意味深な場所にある御神木。

そこには嵯峨天皇の皇子である源融の邸宅「河原院」の跡地があった事と、この榎の木が邸宅の敷地内にあったことが書かれている。源融は有名な紫式部の「光源氏」のモデルとなった人物として有力な存在だ。

その御神木の後ろ側にはぽっかりと穴の開いた家屋がある。入口にはこれまた意味深な鳥居があり、少し気味が悪い。

入口から薄暗い内部を除くと左側に折れて祭壇が置かれている。榎大明神である。巨大な榎の御神木はこの小さな祠に関わっている。

それにしても、家屋に埋もれるように存在する祭壇に、かなりテキトーに置かれた賽銭箱。この怪しげな佇まいは何故。

祠の裏手に回るとそこにも玄関があるが、様子から見ると工事途中なのだろうか。いまいち用途がよくわからない。ミステリアスな物件である。

その正面にもお地蔵様が祀られた祠があった。目の前の鴨川からは時折渡り鳥の大群が五条大橋の前後を滑空している。いやがうえに京都らしさを実感する場所である。

<追記>「五条楽園」は、当方が初めて取材で訪れた2010年にお茶屋の経営者などが売防法違反で摘発され、その後自主的に廃業をする形で壊滅してしまっている。したがって、当記事は五条楽園壊滅直前の街の様子を記録するものとなります。壊滅後、2015年に公開した続編レポートはこちらです。


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