日本が誇る古都、世界的観光地としてその座を不動のものとしている「京都」の魅力に惹きつけられて何度もこの地に足を運ぶ観光客は多い。この土地における文化や歴史の蓄積はそれほどの魅力を持って当然のものだし、この街の価値は将来も失われる事もないであろう。しかし一方で、観光客の目にも触れず静かにその歴史に幕を閉じ、その存在もろとも闇に封じ込められた場所が京都の片隅にひっそり残っている。…「五条楽園」という場所だ。
京都には祇園や先斗町、上七軒などに見られる「お茶屋」と呼ばれる店が集まるお茶屋街が数多く存在しているのは周知の通りである。この五条楽園にあるのも、そうした「お茶屋」であり、芸妓がお稽古をする「歌舞練場」もちゃんとある。
しかし五条楽園が他のお茶屋街と違うのは、大阪の飛田新地のような特殊な「営業スタイル」を取っていたという事だ。毎月2、12、22日と「2の付く日」は休日で、お茶屋が一斉に休業するといった組合の決まりがあるとか、本来「一見さんお断り」の京都のお茶屋街でもここだけ例外だとか、意味合い的には完全にソッチ側の場所なのだ。
その事で五条楽園内の「お茶屋」や置屋の責任者や経営者らが売防法違反容疑で一斉に逮捕されたのが2010年10月。その直後から五条楽園の店舗は全て一斉休業し、翌月には「サウナの梅湯」前の高瀬川に掛かる橋の手前に掲げられていた「五条楽園」と書かれた看板も撤去されてしまった。翌2011年3月、五条楽園のお茶屋組合も解散を決め、完全にその歴史の幕を閉じた。
それから4年が経った現在、この五条楽園が一体どのような状態になっていたのか全然見に来てなかったので、今回再訪を試みた。場所は変わらず五条大橋の南側、鴨川と高瀬川を挟んだ中州地帯に広がっている。
「五条楽園壊滅」の一報を聞いた時はかなり衝撃的で、それ以来この土地にあった多くのお茶屋も解体されるなどして数が減っていると聞いたが、まだ建物自体健在な所も多く、艶っぽい色街独特の風情がむんむん漂っている。立派な唐破風を持った豪勢な造りのお茶屋「本家三友」の建物もまだあった。五条楽園を代表する大店である。
唐破風の上に乗っかっている瓦の側面に「三友樓」という屋号が右から左に書かれているのが読める。遊郭時代からの屋号で、五条楽園が現役だった頃もひっそり営業していたみたいだが、今となってはひっそり静まり返っているのみ。
五条楽園内の建物は「本家三友」やこちらの建物(屋号不詳)のような、戦前の遊郭建築が未だに残っているもの、それに戦後の赤線地帯だった時期に建てられた豆タイルびっしりのカフェー建築、それから一般住居とに分かれている。
元は江戸時代からあった五条新地、六条新地、七条新地というそれぞれの各遊郭が大正時代に合併し「七条新地」という名称で続いていたものが前身となる。これが戦後に赤線に移行、昭和33(1958)年の売防法施行後、五条楽園と名を改めて営業してきた。芸妓本位の花街として転換していたというのが建前だが、実際には飛田新地のような営業をしていたお茶屋も多かった訳だ。
確かに昔と比べると、趣き深い洋風のカフェー建築がいくつか姿を消してしまっていて、特に個性的だった「遊女の姿が刻まれたステンドグラス」のあった建物はいくら探しても見つからず、後で取り壊されて駐車場に変わっていた事を知った。
「三友」の斜向かいに残るピンクの豆タイルびっしりなカフェー建築。昭和の時代には遊客で賑わった街の名残りがそこかしこに…しかし確実にタイムリミットを迎えている印象はある。
五条楽園はもうとっくに壊滅してしまった色街だが、外国人観光客らが好んで泊まる、元遊郭の旅館「平岩」は健在。無論こちらも売防法施行後の転業旅館だが、唐破風の玄関や細格子など、遊郭時代の風情が色濃く残っていて、これは外国人にウケない訳がないだろうというジャパニーズ・トラディッショナルなお宿である。
シングル一泊3800円からと、リーズナブルなのも非常に良いが、部屋数が限られている上に外国人観光客に人気なので、なかなか泊まる機会がない。五条楽園壊滅後もバックパッカー外国人がたまに散策している姿を見かけるのはこの旅館があるからだろうな。近所に「アネックス平岩」という別館もあるし、結構儲かってそうでんな…
旅館平岩のすぐ斜向かいにある元お茶屋の建物は、週末限定で開いているアート系のショップやレンタルスペースとして使われているという「五条モール」なる店舗。以前はこのような店は無かった。かつてのダークサイドお茶屋街・五条楽園にも微妙に変化の兆しがある。
「本家三友」から路地に入った辺り。お茶屋と一般住居が入り混じった区画になるが、もはや「現役」ではないという事を知ると、観光客のふりをしてバシバシ写真を撮っても何のお咎めも無さそうな気がして気が緩んでしまう。
京都市内ではどこにでも見られて何も珍しくはない「仁丹」町名表示板もよく見ればかなりの年代物。下京区六軒通木屋町東入岩瀧町…一見地図屋泣かせな「通り名表記」も京都らしさですので。
その路地と高瀬川との間を結ぶ、幅1メートルもない細い小道に入り込むと家屋の壁に描かれた風流な庭園の絵が残されていて、ここも以前来た時とは変わっていない。