尼のリトル奄美・尼崎市「杭瀬」の市場と商店街を歩く

尼崎市

阪神杭瀬駅から国道2号を跨いで北側に出ると結構な規模の商店街が広がっている。工業都市尼崎の中でもとりわけ鹿児島・奄美出身者が多い杭瀬の街は「リトル奄美」と呼ばれているらしく、商店街にはそれらの地方の特産品を売る店舗も多い。

とは言っても大阪市内から川一つ隔ててすぐ隣にある杭瀬の街だけの事はある、大阪の下町とさほど変わらない街並みがそこにはあった。くたびれたアーケード、くたびれた店舗、そして道行く人々もみな年老いてくたびれている。

駅前から北に伸びる通りを進むと国道2号から北側一帯の歩道部分がアーケードに変わり商店街らしい佇まいとなる。例の大量怪死事件の主犯格はこの道を通って駅と自宅を往復していたようだが、そんな凶悪犯が住んでいたような雰囲気には思えない。

案の定パチンコ屋とかしか目につかず、さすが庶民の町やなあなどと勝手に思っていたが一応学習塾もあるようですよ。「杭瀬の松下村塾」らしい。すげえ。一方でスミダ一味は恐喝とマインドコントロールと死体遺棄のエリート養成塾だった訳ですが。

その通りのあちこちに「杭瀬市場」などの看板を掲げた商店街なり市場の入口が見える。どこを見回してもふた世代程前遡ったような街並みである。それにしても住民の電動カート率の高さにあんぐり。高齢化率半端無さそう。


そして昭和丸出しのその名も「昭和ショッピングロード」が一際買い物客で賑わう商店街となる。厳密にはこの先の市場が見所なのだが、そっちは後で行く。どうも気になるのだが、信号待ちしているのもジジババだらけだ。将来大丈夫かこの街は。

駅から商店街への動線となる場所だけあって飲食店もそれなりに充実。安さがウリのカレー専門店「カレーフレンド」もあり。全然ありきたりなチェーン店は存在しません。杭瀬のお店はどれも個性派揃いです。

勿論コナモン専門店もございましてよ。なぜ大阪文化圏の食い物屋はこうも外装がゴッテゴテになってしまうのかと言いたくなる見本のような店構え。いやあ個性的。明石焼き専門店を自称してるけどたこ焼き、お好み焼きも食えます「たこよし」。

例に漏れず古びた市場の看板。杭瀬市場は戦後にいち早く復興した市場で、この界隈は高度経済成長期にぐんぐん人口が伸びるや尼崎屈指の繁華街にまで成長している。昔は映画館が5軒、さらに「壽座」という大衆演劇場も存在していた娯楽の拠点でもあった。今は全然ですけどね。

すっかり子育て世代の姿も見かけなくなった老人タウンではあるが昔ながらのおもちゃ屋が一軒だけ孤軍奮闘されている。ここも昭和の時代から何にも変わっていない店構え。こうした古いおもちゃ屋も大阪市内では結構潰れまくってますけどね。

しかしよく店を見るとビルの壁にまで仮面ライダーやらウルトラマンがいるというのがポイント高し。なんというかテンションは昭和40年代のまま…杭瀬のヒーロー達はいつまでも壁に吊るされているだけで地獄の軍団スミダ一味は倒せませんでした。

歩道のアーケードが途切れた先にはこれまた広大な団地が姿を現す。その名も杭瀬団地。これも昭和40年代に整備された古い団地である。駅から市場を抜けた先に団地と、うまく立地を活かしておりますな。兵庫県住宅供給公社管理の住宅です。

そしてこの杭瀬団地も元は東洋紡績神崎工場の跡に作られた団地なのであった。戦前の尼崎は紡績工場が多く、同じ杭瀬には大日本紡績(現ユニチカ)尼崎工場、さらに戸ノ内には毛斯綸紡績(後に鐘淵紡績)戸ノ内工場などとあれこれあった訳だ。

ところでこの紡績工場の存在は尼崎の市外局番が何故か大阪市と同じ「06」であるきっかけともなった。明治時代、大日本紡績の前身である尼崎紡績の工場が作られ、明治29(1896)年、大阪市内の事業所までの直通電話を引くため13キロの区間に自前で電柱と電話線を架設し大阪の電話交換局に寄贈した。当時の尼崎には電話が開通していなかったのだ。

さらに戦後の昭和29(1954)年に市外局番が適用された際、尼崎市も大阪市と同じ通話料金で利用出来るように地元の経済団体や尼崎市が工事費の一部を負担して市外局番を「06」にしてもらったという。それだけ大昔から大阪と尼崎の結びつきが強かった訳ですな。もう、そこまでやるんなら最初から大阪市尼崎区でええやんと思ったんですが。

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