全国各地、フェリーの定期航路が次々廃止されていく世知辛い世の中だが、大阪には現在も南港のフェリーターミナルを発着する定期便があり、飛行機や新幹線が大手を振るっている中、未だに多くの利用者がいる。しかし一方で定期航路が全て廃止されてしまったまま、放置プレイ状態になったフェリーターミナルも存在する。
それが大阪市港区弁天にある「弁天埠頭ターミナルビル」である。JR・大阪市営地下鉄の弁天町駅から徒歩15分の位置にある同ターミナルは、阪神大震災のあった1995年以降全ての定期便が廃止され、以後使われず、解体もされず、殆ど放置されたままだ。
この弁天埠頭ターミナルビルが出来たのは高度経済成長期の真っ只中の昭和40(1965)年7月1日。関西汽船と加藤汽船の二社がそれぞれ九州・四国行きのフェリーを多数就航していた。今でも残る「さんふらわあ」の看板。別府行きは南港ATC前に場所を移して、今でも就航中だが…
弁天埠頭へのアクセスは、基本的には弁天町駅からトコトコ歩くしかないが、一応現在でもターミナルビルの前に市バスのバス停がある。51系統(ドーム前千代崎~天保山)と84系統(なんば~八幡屋三丁目)が1時間1本ずつ。
ターミナルビルの隣には、かつて長い船旅の前後に多くの客が泊まっていたであろう「旅館つた家」の古めかしい建物が今も残る。フェリーの客はもう居ないので、今では付近の国道43号や阪神高速を走る長距離バスやトラックドライバーの宿泊・仮眠客を中心に利用者が多いらしい。
大阪市港区は戦後にまで遡ると、空襲でほぼ壊滅状態になってしまったので、綺麗さっぱり無くなったついでに海抜ゼロメートル地帯で台風や高波による水害に弱かった地区全体を安治川の浚渫工事で集めた土砂で盛り土をして大胆に治水対策を行ったという歴史があって、浚渫の結果出来た安治川内港を整備して生まれたのが弁天埠頭という事になる。三方を海に面し強風で使い勝手が悪かった築港より内陸にあり、より都心に近い場所にフェリーターミナルを構える事にメリットがあったのだ。
しかしモータリゼーションの影響で、船旅の主役はカーフェリーに移る。弁天埠頭は自動車が停められる充分なスペースが確保できず、昭和46(1971)年に出来た南港フェリーターミナルに徐々に役目を奪われる事になる。と言っても、港大橋が開通したのが昭和49(1974)年で、ニュートラムが開通したのが昭和56(1981)年。それまで南港は地の果てで、なんだかんだ言っても弁天埠頭は80年代半ばくらいまでは結構賑やかだった覚えがある。今ではこんな酷い有り様だが。
最盛期にはこの弁天埠頭から小豆島、高松、松山、今治、別府といった各都市にフェリーで直行できていたのだ。しかし1995年2月に関西汽船が弁天埠頭発別府行き航路を廃止したのを最後に、弁天埠頭はフェリーターミナルとしての役割を終えた。
その時期が阪神大震災の直後というのもあって引っかかったのだが、90年代になると既に瀬戸大橋も出来ているので、少なくとも四国行きのカーフェリーの需要は大幅に落ちていたのだろう。いずれは寿命を迎える施設には違いなかったが、それがあまりに早すぎたといった所だ。
二階建てのターミナルビルも現在はその殆どが退去してしまいもぬけの殻だが、一部分だけは「弁天ふ頭ギャラリー」として開放されており、アート作家によるよく分からない芸術作品が無造作に廊下などに置かれていた。この辺も以前はフェリーの乗客が使っていた商店などがあった所だ。このギャラリーのサイトを見たが、最終のイベントスケジュールが2013年9月で終わっていた。現在もあるのだろうか…
ふと、廃墟同然のターミナルビルの玄関付近に一つの錆びついた案内看板が辛うじて立ち続けているのが目についた。もう、いい加減自然崩壊してガターンと落ちてしまいそうな状況ですが…
「大阪はその昔、”難波津”とも呼ばれ、古くから繁栄した庶民の町であり、また産業都市として東京と並び、文字通り日本の心臓部を占めている。」の一文で始まる、旅行者に向けて大阪の説明文が記された案内看板。「東京と並び」どころか、日本の中心は大阪なんやでと地元の商売人が本気で信じていた時代。
大阪市内の鉄道路線図もある。今は亡き阪神北大阪線があったり、新幹線は新大阪から西側が無かったり、谷町線が東梅田までしか無かったりするところから見て、恐らくこの看板が作られたのは1970年少し前だろう。というのも、重要なヒントが看板の上の方にあって…
今では阪急千里線となっている「阪急千里山線」に「万国博西口」駅があって、さらに北大阪急行が千里中央の先から「万国博中央口」駅まで伸びているのが記されているからだ。この看板が出来て、大阪万博が開催されてもうすぐ45年、フェリーターミナルが廃止されてからもうすぐ20年か…
そして、ターミナルビルの横から岸壁の様子を今でも観察する事ができる。この辺の様子も、1995年に廃止された当時からそのままだ。真っ赤な防潮扉で封鎖されている先へはさすがに入る事ができないが…
その防潮扉の上から向こう側の様子くらいなら見る事ができる。今治から神戸青木を往復する「愛媛阪神フェリー」の広告が残っていた。これも2000年に航路が廃止され、現存しない。
反対側を見るとこの通り。「くるしま観光グループ」の奥道後温泉観光バスの広告だったり、一六タルトの広告だったり、とりあえず目につくものはみんな愛媛のものである。
今では高速道路網も新幹線も空の便も大充実の日本列島。その代償として古き良きフェリーターミナルは時代の遺物として静かに姿を消していく運命にある。そのわびさびとノスタルジーに絶望的なまでに浸れる場所が、この弁天埠頭だ。
「コクがあるのに、キレがある。」何が言いたいんだかといった曖昧模糊で意味不明ながらロングセラーヒットとなった某ビールのキャッチフレーズはバブルの残り香漂う90年代のセンス。
バブルと言えば、弁天埠頭の最寄り駅である弁天町駅周辺も、大阪市が副都心計画の一環でオーク200というハコモノを作ったが、思いっきりズッコケて赤字垂れ流し。土地信託事業の失敗のツケとして大阪市が637億円を払う判決を受けたりして、本当に笑えないんですが、今となっては唯一の観光施設だった交通科学博物館も閉鎖し、旅人も車も素通りするだけの、大して見るものも少ない「バブルの塔」が見下ろす鄙びた下町になった。
<追記>とある御方のタレコミで知りましたが「弁天埠頭ターミナルビル」は2017年4月24日から解体工事が開始されているそうです。見納めするなら今のうち。