大和郡山市洞泉寺町の遊郭跡を探索するため訪れた大阪DEEP案内取材班。
非常に小さな一画だが、往時の遊郭の面影をこれ以上濃密に残している場所を他に見た事がない。
歴史は古く、元和7(1621)年には「士風に悪影響あり」として遊郭が全て取り払われたという話がある。その後大火に遭い、いつの間にか復活して、江戸時代から昭和33年までたいそう色街として栄えたという。つまり足掛け400年近い歴史がある。
大和郡山市が買い取り保全している旧川本家住宅の建物を後にして、今度は洞泉寺や源九郎稲荷神社がある方面に行く。
大信寺墓地から遠目に見える妓楼の屋根上。「中山」という文字と家紋らしき絵柄が刻まれた瓦が見えた。かつての妓楼の所有者を意味するものだろうか。
町内の路地を反時計回りに廻る事になる。その途中の家並みも普通の一軒家ばかりとなっていて風情に乏しいが、突き当たりにもう一軒立派な妓楼が見えている。
他の妓楼と同じく細縦格子に覆われた貫禄ある建物だ。こちらは現役で人家として使われていて、玄関前あたりは結構所帯染みた感じがする。この右隣が洞泉寺と源九郎稲荷神社となる。
慎ましやかな雰囲気の勝手口。周囲の漆喰壁は殆ど剥がれ落ちて地肌が丸見えになっている。
格子の内側に隠された遊郭の歴史、想像するだけでモヤモヤしてしまいそうだが部外者なのであくまで外から見るしかできない。旧川本家住宅の内部見学は機会があれば是非参加したいものだ。
一見棟続きにも見えるが同じ2階建ての妓楼が2軒並んでいる。遠目に見てもなかなか壮観な光景だ。
左隣の元妓楼も一般の民家。電気工事業者らしい看板が玄関脇に掲げられている。
町名ともなっている洞泉寺は町内で最も広い面積を持つ。しかし玄関が閉じられてしまい中には入れなかった。
その隣にある源九郎稲荷神社。何という事もない普通の街の神社、といった印象しかないが日本三大稲荷の一つに数えられるらしく、源義経にゆかりがあって様々な伝説がある。何気に凄い場所だ。
妓楼の裏側と稲荷神社の間に隠れた路地。緊急避難通路の看板が掛かっている。火事にだけはなって欲しくないものだな。
大和郡山市洞泉寺町の一画は「昔の遊郭が忠実に残されている」点では日本屈指の存在であると思わせるに充分な、非常に貴重な空間だった。
これだけのものを作る技術のある大工や建具職人も時代の流れで現在では跡継ぎがおらず、何かの拍子に取り壊されたら文化ともども消え行く運命にある。遊郭建築とは決して陽の目を見る事のない儚い裏建築遺産なのである。