【昭和遺産】尼崎市崇徳院の廃れ空間「新浜田市場&浜田中央商店街」と飯場の残骸

工場労働者の街・尼崎市に残る昭和の廃れ市場を巡るレポート、まだまだストックがあったので放出したい。今回やってきたのは国道2号線「浜田町四丁目」交差点近く。

この界隈と言えば「シャレコーベミュージアム」なる珍妙な佇まいの“頭蓋骨博物館”などという、珍スポマニアにはよく知られた施設があるんですが定休日だしたまたま前を通りがかっただけでございます。今回はここから国道2号線を渡った南側の「崇徳院」という地域に用事がある。

崇徳院二丁目「新浜田市場」という廃れ市場

崇徳院とは随分物騒な字面の地名ですけれども、日本三大怨霊の一つに数えられる“崇徳天皇”と関係でもあるんでしょうか…と考え込んでいるうちに辿り着いたのがこちらの「公認 新浜田市場」という場所。かなーり古ぼけた佇まいである。入り口にクリーニング屋があるくらいで、あとはほぼシャッター街。

この新浜田市場、その造りからしても昭和40年代の始め頃には既に存在していたものと思われる。国土地理院サイトで見られる昭和41(1966)年に撮影された航空写真でも、この市場の存在が確認できるわけで、建物も恐らくは既に50年以上は経過しているだろう。

途中の通路は照明すらほとんど灯っておらず真っ暗闇となった箇所も見られる。この市場ももはや“虫の息”といったところであろうか。

尼崎と宝塚を結ぶ「尼宝線」沿いにある尼宝市場、大庄新市場、西大島市場といった他の市場も見てきたが、いずれもこんな感じで殆どオワコン状態になっていた。鉄道駅が最寄りになくバスしか足がない土地柄だと総じてこないなりますわな。

新浜田市場は西側の区画と東側の区画、二つに分かれていてそれぞれ建築年代が違う。主に廃れっぷりを晒しているのは古い東側の区画で、T字状に伸びるアーケードの3つの入り口それぞれに味わい深さを醸し出している。

もう一ヶ所の入り口も渋い佇まいですね…「公認 新浜田市場」と書かれた看板のフォントもレトロ感割増なチョイスでございます。

ちなみに市場の西側の区画を見ると、こちらはまだそこまで古ぼけた感じでもない。「毎週水曜日」が定休日らしいが、別に水曜日でもないのに入り口のシャッターは閉じられたままだ。やはりこちらもオワコンですかね…

以前は「浜田中央商店街」というアーケード街があった

ところでこの新浜田市場のすぐ北側の路地、以前は「浜田中央商店街」という立派な全蓋式アーケードが整備された商店街だった。昔のストリートビューを見ると、2011年頃のものにはアーケードが存在していた姿が見られるが、その後に撤去されたようである。阪神本線尼崎センタープール前駅から徒歩10分くらいの位置にある。

もはや誰も訪れなくなり商店街であるとすら認識されなくなった場所…日本が元気だった80年代に回帰でもして、細々とファンシーグッズでも売るしかないのか…

思えばこの尼崎市、最盛期の人口が55万人だったのに、それが10万人近くも減っているという人口減少率の高い街でもある。こうした場末の商店街も続々と櫛の歯が欠けたように店が消えていき、その空いた隙が福祉作業所や介護サービスのテナントに取って代わる。

そんな浜田中央商店街のはんこ屋の隣の空き地…ここにはストリートビューで確認するとつい最近まで「働く人の店 大衆食堂 更科支店」と書かれた激渋過ぎる看板を掲げた食堂の建物があったが、それが解体されて戸建住宅建設予定地に変わっていた。

三階建ての屋上スペースと駐車場付きの戸建住宅が2780万円というお値段で売られている。くっそ安いのう…買い手が決まったら建てて売るような感じですかね。さぞかし競艇場通いが捗りそうな土地ですけれども。

ろくに食い物屋も見当たらない浜田中央商店街で唯一現役っぽい喫茶店がその斜向かい辺りに一軒ありますけれども…“準備中”の札が掛かってましたね。

そんな喫茶店、屋号は「喫茶ミッキー」だそうです。力強い筆書きのヘタウマな字が哀愁を誘う、その看板にはどこかで見た事のあるような大きな黒い頭のネズミ(By小池百合子)が…これって「絶対あかんやつ」というアレですかね。まあ尼崎にはこういう著作権無視物件は多いですけど。

崇徳院二丁目のガチ過ぎる“飯場”

浜田中央商店街から北側に逸れた路地に入ると現れるのが、古びた建設業者の建物である。どこからどう見ても、かつて飯場として使われていたであろう佇まい。こんな物件が唐突に現れるのが尼崎の奥深さである。

その建物の周りを見るともう出番のなさそうな建築資材や廃材がうず高く足元に積まれ埋もれていて、建物に立ち入る事もままならない。既に本来の役目として使われなくなって久しいのではなかろうか。相当年代物のコイン式乾燥機も置かれている。看板には「土木・建築一式 広友興業」とある。

在日コリアン集住地である京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地にも、このような昭和の飯場の残骸が見られた。尼崎にもまだまだあちこち至る所にこうした忘れ去られた場所が存在しているんでしょうな。

ボロボロに破けた赤いテント屋根の掛かった開き戸は半分くらい開いたままになっていた。そこには「食堂」と書かれたプレートもある。高度経済成長期の日本をその底辺から支えた、かつての繁栄の跡を見ているのだろうか。

その向かいの廃れた佇まいのアパートも、土木作業員の居住スペースだったのではと思われる。アパートの入り口はベニヤ板で塞がれて使われていない模様だが、その路地の奥には今も若干暮らしている住民がいるようだ。そしてすぐ裏側の建物は「韓国民団 浜田分団」と書かれた看板を掲げている。ここもやはり在日コリアンが多い土地なのだ。

ところで崇徳院の地名は讃岐に流刑となった崇徳天皇が途中で休憩した土地がこのへんだったってのが由来らしいですね。日本三大怨霊の名を語る街・崇徳院もまた労働者向けの大衆食堂や焼肉屋が軒を連なる、尼崎らしい下町風景となっていた。


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DEEP案内シリーズ管理人。大阪ベイエリアの貧民窟育ち。独自のひん曲がった視点で街歩きを続けております。2008年より上京。関西に留まらず全国、海外に取材対象を薄く広く伸ばして来ました。2017年6月15日に単行本「『東京DEEP案内』が選ぶ 首都圏住みたくない街」(駒草出版)を全国発売。
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