【宇治市】戦後70年、朝鮮人飯場の成れの果ての忘れ去られた不法占拠スラム「ウトロ51番地」の状況 (2015年)

宇治市

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宇治市 伊勢田町ウトロ

しかし現状を見ている限り、当初と比べてそれほど街並みに変化はないようにも思える。あばら屋はあばら屋のままだし、廃墟と化した家屋は以前よりも増えているような気がする。この地区には55世帯約150人程度が暮らしているというが、現地を歩いても全く生活感は漂っていない。

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大阪で良く見かける一般的なコリアタウンのように、賑やかな韓国料理店やキムチ屋などの店舗が立ち並んでいる訳でもなく、地区はすっかり寂れ切ってしまい、風前の灯であるかのような印象すら受ける。

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リアルで「戦後のバラック」を思わせるようなオンボロ家屋が平然と残っているのがこのウトロ地区だ。DIY感たっぷりの波トタン葺き家屋での生活は、かなり厳しいものであったに違いない。

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たまに生活感のある民家を見かける事はあるが、そこにいたのは人ではなく子猫だった。

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今でも細々と続いているらしいウトロ地区住民の生業は鉄鋼業や廃品回収などといったものであるようだ。古い町の鉄工場がポツリ、静寂が包む集落にそこだけ機械が動く金属音を鳴らしていた。地区のあちこちには廃材や廃車が山積みにされ、廃品回収の車が路上駐車されている。

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廃屋だけに留まらず廃棄されたままの自動車やガラクタなんかもあちらこちらに放置されていて、昼間歩くだけでも不気味極まりない。まだ昭和の高度経済成長期には町工場や建設業なんかでそれなりに潤っていた時期もあったのだろうが、今はガチでゴーストタウンでしかない。

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夏場に来ると、集落内は雑草が生い茂り、わずかにその隙間に人一人分歩けるだけのアスファルトが露出するだけとなる。こんな場所でも人の営みは今なお続いているのだ。

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長年、土地は不法占拠状態だったため、かつての所有者だった日産車体は水道管の敷設などのインフラ整備を認めず、住民は長い間上下水道のない暮らしを続けてきた。その当時の地区の生活環境は、想像するだけでも劣悪なものだっただろう。その後、人道的見地から日産車体は水道管の敷設を認めており、ウトロの住民が水道を使えるようになったのは昭和の終わり、昭和62(1987)年の事であった。

宇治市 伊勢田町ウトロ

集落内を横切る水路の上にまで鉄板が敷き詰められ、その上には放置された流し台や壊れた二層式洗濯機、さらには黄桜の酒自動販売機までもが置かれており、どう見ても建設会社の飯場として戦後長らく使われていたものと見られる箇所も。これらも現在は廃墟同然である。非常に生々しい光景だ。

宇治市 伊勢田町ウトロ

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「ウトロ51は日本一」「喧嘩上等」「特攻」等など所々で見かける微妙に漢字を間違えたスプレーの落書き。ウトロというかアウトローの端くれですが、いつ頃のヤンキーが書き残していった落書きなのだろうか、それすらも分からない。

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ウトロ地区の中心には、南山城同胞生活総合センター「エルファ」なる名称の施設が建っている。ハングル表記が見られる辺り、ここもやはり在日コリアン関係の施設には違いないのだが、恐らくこの建物が町内会の役割を兼ねているのだろうか。1階は老人介護施設のようである。やはりこの地区でも高齢化が激しいのだ。

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しかし戦後70年という期間、この土地で途方もない闘争に明け暮れるウトロ住民の頑なな意志を見せる看板群とは裏腹に、このような廃屋ばかりとなった地区の現状は、もはやこんな場所に敢えて住む必要もないという若い世代の「諦め」の結果なのではないかと思える。

宇治市 伊勢田町ウトロ

特に建設会社の飯場らしき残骸が多い事からも、昔はそれなりに役目があった土地なのだろうし、バブル期には土地転がしの対象にもされた事がある因縁深い土地。最後は結局公営住宅が建って、これらのスラムな街並みも姿を消す日が来るのだろう。

宇治市 伊勢田町ウトロ

遠からず、このウトロという街は姿を消す事になる運命は避けられないように思う。この土地を過ごした人々の歴史も、色褪せてゆくこれらの写真のようにいずれ人々の間から忘れ去られていくのだろう。戦後70年、その年数は一言で現すにはあまりにも長すぎる年月だった。


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