富士屋別館や蛇ヶ池などがある場所から目と鼻の先に「第二砲台跡」が残されている。5つある砲台跡のうち唯一海岸に面している。明治31(1898)年竣工とのこと。
紀淡海峡の防衛を目的として建てられたものの第二次世界大戦中は空中戦メインとなったので結局一度も実戦に使われる事もなく、終戦後に米軍によって爆破され壊れたまま放置されているという虚しい経歴の持ち主である。
頑丈な煉瓦製の砲台跡だが風化が酷いので立入禁止だと警告看板が掲げられている。DQNが勝手に立ち入って転落死亡事故とか起こしてそうだし実際気をつけないと危険な箇所が多い。
海に突き出た形で朽ちるに任された第二砲台跡。この友ヶ島にある5つの砲台跡に加えて紀淡海峡周辺に築かれた要塞跡をひっくるめて「由良要塞」と呼ぶ。由良とはすぐ対岸にある兵庫県淡路島、洲本市の集落の名前だ。
対岸の淡路島から友ヶ島を経て和歌山へ繋ぐ「紀淡海峡大橋」の計画もかつてはあったが、交通需要や建設費用の問題だったりで実現の目処が立たないままである。深日港(岬町)から洲本に直接渡るフェリーが昔はあったらしいが、今はそれも無いし、和歌山県民がナゾのパラダイスを見に行くのには当分不便を強いられそうである。逆に、もし紀淡海峡大橋が出来るのであれば、この島の戦跡が解体される恐れもあるんだろうな。
砲台の土台部分には未だに砲台を取り付けていた砲床の金属部分が円形状に残されているのが見られる。生々しい。
第二砲台跡から少し山道を登っていくと友ヶ島灯台に辿り着く。明治中頃にこの島が要塞化する前からあった建造物。
幕末期に幕府がイギリスと交わした「大坂約定」に基づき明治5(1872)年に建設された日本で8基目の洋式灯台は誕生から140年が過ぎた今でも現役。
灯台の前面に据え付けられたプレートには明治5(1872)年6月20日の日付に加えて明治23(1890)年8月5日の日付も記されている。この年に由良要塞建設の為に移築されているのだ。そのプレートの下には経済産業省による「近代化産業遺産」の真新しめなプレートが付け加えられている。
島の西側をぐるりと回ると、今度は蛇ヶ池の南側に開けた区画に出る。「池尻広場」と呼ばれているようだ。現在はキャンプ場で、客があちこちでテントを張っているが、急に街角にあるような電柱が建っているわ、雰囲気的には集落跡のようなものを感じさせる。
さらには明らかに昔人が住んでました的な古井戸まで整備されているし、ここは一体…友ヶ島はかつては無人島ではなかったのだろうか。
特にこの辺なんか民家の玄関跡と思えるような作りになっている。これは廃村なのか?!と気になってしょうがないのだが、要塞跡だっただけに軍人のお住まいとかがあったのかも知れん。
池尻広場南側の浜辺にもプライベートビーチ状態で家族水入らずの時間を過ごす方々がいたり、海岸沿いで磯物を密漁しまくっているオッサン連中がいたりしてなかなかカオスだ。密漁してはいけませんという日本語の看板が読めないのも大阪民国の属国だからしょうがないのでしょうね。
友ヶ島に渡る観光客の殆どは日帰りなのだろうが、その場合は帰りの船の時間をどうしても意識せざるを得ないので、次から次へと戦跡巡りに追われる羽目になる。運動不足の身体を引きずりながら山の中を駆け回る。
旧陸軍要塞と廃墟旅館の島「友ヶ島」上陸記
- 友ヶ島汽船、野奈浦桟橋、廃墟旅館
- 第二砲台跡、友ヶ島灯台、池尻広場
- 海軍聴音所跡、第三砲台跡、将校宿舎跡
- 旅館友ヶ荘、帰りのフェリー