ドヤ街・西成釜ヶ崎のランドマーク「あいりん労働福祉センター」

大阪市西成区

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2階と3階は、ただひたすらだだっ広いコンクリートの空間があるのみだ。言うまでもなく行き場のない労働者達の仮のねぐらとなる。ホームレスの千人風呂ならぬ千人ベッドだ。冷たいコンクリート床にダンボール一枚だけを引き、その上で布団を被ったり、何重にもジャンパーに身を包んで何もない一日を過ごす。それが西成釜ヶ崎の日常。

建物内の焚き火はダメなはずだが真冬の時には平気でやっていたりするようだ。天井が高く風通しだけは良いので、今の所大きな騒ぎにはなっていないようだが。それでも施設の営業時間(午後6時)が終わると彼らは無常にも外に放り出される。

夜を明かしたいなら、また夕方くらいから1階に出来る行列に並んで、無料の簡易シェルターの宿泊券を貰う事だ。既に昼過ぎくらいから各々の私物を並べて場所取りしている姿が見られるだろう。まるで旧ソ連の体制が西成だけでは半永久的に続いているのか!と思うような絶望的な行列が日常化していても、そこで生きる労働者達の姿は逞しい。

ただでさえ「釜ヶ崎」の路上にすらよそ者は近付かないものだが、あいりん労働福祉センターの建物の中にまで入ってくる人間はさぞかし「浮いている」はずだ。わざと汚い身なりをして入って行ったのだが、周囲には20、30代の人間は皆無。例えどう上手に変装しようとも「釜ヶ崎の色」に染まったアルコール臭くて浅黒い肌を持つオッサン達に同化する事はできない。せいぜいボランティアの人間に思われるくらいだ。

しかし、本当に殺風景過ぎる建物である。この建物の5階から上は、先にも述べたように「市営萩之茶屋住宅」となっている。やはり場所が場所だけに汚い団地だが、そこに住む人々は釜ヶ崎のヒエラルキーでは「上層階級」と言うべき存在だろう。


3階南側にある「財団法人西成労働福祉センター」の事務所。あいりん労働福祉センター内の施設管理、職業紹介の他、就労・生活相談、地元でのレクリエーション活動などを行う団体である。隣には健康保険の窓口が階段の上の一段高い場所にあり、その隣には日雇い労働者のオッサンのための休憩所。囲碁か将棋か知らんがやっていた。

窓口業務がある平日には建物内にある売店なり食堂も営業しているそうだが、日曜日だったので全てシャッターが閉まっている。また何度か状態を確認しに来る必要があるな。

この場所では酒に酔っ払ったオッサンの声が響くだけだ。

だだっ広いフロアは、やはりどの階もホームレスの寝床と化していて、所々にゴミが散乱する有様だ。不衛生極まりない。

3階北側があいりん公共職業安定所の窓口になる。色別に分けられているのはどういう意味なのか、まだ確認出来ていない。

この窓口目掛けて、朝5時から仕事を求める「闘い」が始まる。

健康保険手帳を受けるように労働者に促す注意書き。これも日雇労働者用の健康保険で、雇用保険と同じく、事業主より白手帳に印紙を貼ってもらうシステムになっている。本来は末端の労働者でも自立できるような仕組みを作ってはあったのだが、産業構造の変化で、日雇労働の中核だった「建設業」の求人が減った事と高齢者化した日雇い労働者が「ドカタ仕事」に耐えられなくなった事で、これらのシステムにも深刻な綻びが生じている。

そして、西成のオッサンの生命を脅かすのは「結核」の存在。西成において結核は決して「昔の病気」などではない。大阪市西成区は結核罹患率が全国平均の12.5倍。それも釜ヶ崎だけに限定すると人口10万人当たり750という驚異の罹患率である。ちなみに1998年においての西成区の罹患率はフィリピン以上カンボジア並み。どこの発展途上国やねん。

結核は身体の免疫抵抗力が弱った時に発症しやすい。貧困と絶望の為に、ろくな食糧を取らず、アルコールばかり摂取する生活を続けると、結核の病魔は間違いなく訪れる。年間400人とも500人とも言われる西成釜ヶ崎の「行き倒れ」の死者の中には結核で命を落とす者も少なくない。まさにデッド・オア・アライブ・西成ライフ。

同じ西成労働福祉センターの建物内にあるが裏手に回らないと入れない「大阪社会医療センター付属病院」。事実上、一文無しの無保険者が多い日雇い労働者のためにほとんど無料で診療を行っているとか。結核の恐怖と戦いながら釜ヶ崎医療の最前線で働く人々に敬服するほかない。


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