砂防ダムを取り囲むように並ぶ住宅地の裏側へ回ると、コンクリート壁を隔てて3メートル近くの落差があり外からではこの集落の様子を見る事は出来ないだろう。逆にこの場所で猛犬やヤ◯ザに追いかけられても避難出来るはずもない訳だ。
しかし何故こんな場所に家を建てる事になったのだろうか、疑問は解けない。
人がすれ違うのもやっとという路地は集落の中を行き来する住民の貴重な生活道路なのである。傍らの民家は雨よけのトタン屋根が通路側にも通され砂防ダムの内外を隔てる垂直のコンクリート壁に立て掛けられているが、半ば朽ちてしまっていた。
砂防ダムに沿って建てられた家々。よく見ると人の生活している気配がない。既に空き家になってしまったのか…手前に何台か置かれた住民の原付も廃車になったままのものがあった。
コンクリート壁と民家の間を通ってさらに集落の中へ。途中で通路は右に折れている。正面はさらに別の民家の玄関がある。こちらはまだ住民がいるらしく家財道具などが置かれているのが見える。
右に折れると集落の通路は砂防ダムの底に向かい緩やかに下り坂となっている。住民がこしらえたであろう簡易なコンクリート舗装と階段。寂れた離島の限界集落のようにも見える風景。
土地関係がどうなっているのかさっぱり意味不明な場所だが一応敷地内には電柱が張り巡らされ基本的なインフラは整っている模様。同じ京都のウトロを思い出さずには居られないが衣笠開キ町は殆ど知られていない。
生活道路となっている集落の周回道路はさらに時計回りに続いている。勝手に建て増しされたバルコニーの下を潜って抜けていく事になる。洗濯機や物干し場は全てこの通路に面していて非常に生活空間が密着している。
さらにそこから通路が枝分かれしていて砂防ダムの底へと通じていた。その先には住民の家庭菜園。
実際に下まで降りてみると殊の外土地が広い事に気が付く。砂防ダムのコンクリート壁に背を向けて一斉に並ぶ周囲の民家群も、ここからだとよく見える。
パッと見何の変哲もない田舎の民家の軒先のように見間違えるが、あくまでここは砂防ダムの中なのである。もしゲリラ豪雨なんぞ起きて鉄砲水でも流れてくればこの中は水浸しになったりするはずだが…今までに被害はなかったのだろうか。
だがさすがに砂防ダムの底にベッタリ民家の床がくっついているような事もなく、手作りのバルコニーもきちんと高床式になっていたりする。
砂防ダム底の家庭菜園から川を挟んで向かい側を見ると、そちらにもバラック小屋が並んでいて非常に香ばしい風景だ。さらに背後にある一般の民家がかなり高い場所に建てられているが、本来の砂防ダムの役割を考えると、ここから下に家を建てるのは危険なはず。
廃墟化したバラックの古さなどを見てもこの土地も戦後のドサクサで勝手に家を建てて住み着いたのがそのままになったと思われるが、この砂防ダムの建設の経緯を含めて地域の歴史を示す資料にさっぱり行き当たらないので困る。詳しい方からのタレコミ待ってます。