梅田の隣にありながら発展とは程遠い存在にある中津の街。阪急中津駅の北側、中津三丁目の界隈は奇跡的に空襲を受けずに済んだ古い下町が残っている。
街の真ん中を南北に貫く「中津商店街」。かなり間口も狭く、うっかりすると通り過ごしてしまいそうな存在だ。阪急中津駅の改札を降りて徒歩1分半くらいの至近距離にある。
梅田の隣にありながら発展とは程遠い存在にある中津の街。阪急中津駅の北側、中津三丁目の界隈は奇跡的に空襲を受けずに済んだ古い下町が残っている。
街の真ん中を南北に貫く「中津商店街」。かなり間口も狭く、うっかりすると通り過ごしてしまいそうな存在だ。阪急中津駅の改札を降りて徒歩1分半くらいの至近距離にある。
日本の古都として歴史の中心にあったこの京都には、表の歴史もあれば裏の歴史もある。毎日多くの観光客が乗り降りする京都駅前。そこから南方向へ少し歩くと「東九条」がある。通称「トンク」。京都最大の在日コリアン集住地として知られている。
その存在を世に知らしめたのは井筒監督の映画「パッチギ!」であり、主人公である李一家が住まうバラック住宅が東九条にあったという設定なのだが、京都観光に訪れる人々も、京都市民ですら近寄らない魔境として、長らく京都駅前という場所にあるにも関わらず見捨てられたかのような街並みが未だに広がっている。
2007年の暮れに長田区を訪問した時に発見した、六番町の廃墟住宅群。それは震災の爪痕なのか、それとも再開発計画による立ち退きなのか、詳しくは知る事ができないままでいるのだが、その時は日が暮れてしまいじっくり探索する事ができなかった。
再度2009年の暮れに同じ場所を訪れた。
新湊川の堤防の上から見える廃墟住宅群はさらに年月が経過して、荒れるに任せる状態で放置されている。周囲は市街地の真ん中であり隣の路地にも普通に人が暮らしている訳だが、なぜかこの路地に面した住居だけがものの見事に廃墟となっている。
長田区の超下町ゾーン「番町地区」の成り立ちは明治時代に旧湊川の河川架け替え工事で開けた土地を区画整理する際に東京千代田の番町地区にならって付けられた地名であり、一番町から七番町までの区画が広がっている。そこに住みだしたのは、長田の地場産業であるケミカルシューズ製造に従事する労働者だ。
その番町地区の北端には新湊川が掛かっている。やけにコンクリート護岸が高い川でありあまり安らげない。とはいえこんな形になってしまうのも神戸独特の地形が絡んでいる。
大雨が降ると上流の六甲山系から流れてくる大量の雨水が鉄砲水となり一気に押し寄せるからだ。神戸では鉄砲水で水遊び中の家族が流されて死ぬ事故も度々起きている。度重なる水害から身を守るための知恵である。
神戸DEEPゾーンと言えば、新開地に続いて見逃してはならないのが「長田区」の存在である。日本のケミカルシューズ産業の集積地である長田区は古い木造家屋が密集する下町地帯を中心に震災の被害で壊滅状態に追いやられたが、それから15年以上が経過した。
長田区の街並みはいたって平穏を取り戻しているが、そんな中で未だに人も住まない廃墟住宅群が取り残されている一帯がある。以前訪れた時に詳しく探索する事ができなかった「五番町・六番町」の界隈を再訪問するため、再度長田の町を訪れた。
神戸高速鉄道に乗って高速長田駅に着いた。年末年始の寒波襲来でやたら寒さに震えていた大阪DEEP案内取材班。久々に訪れた長田の町で早速立ち食い「山陽そば」で腹ごしらえをすることに。もちろん食べるのは「ぼっかけうどん」である。
大阪のDEEPは散々行き尽くしてきたが、神戸のDEEPと言えばやはり「新開地」を外してはならない。そもそもこの地名からして飛田や松島の「新地」と同じ意味を成しているのだ。
1905年に旧湊川河川敷埋立地に作られた神戸新開地は「福原遊郭」を核にして、映画・演芸場・飲食店が軒を連ねる神戸最大の歓楽街として形成された街なのである。一時期は「東の浅草、西の新開地」とまで言われていたその土地を、どうしても見ておきたかったのだ。
神戸新開地の繁華街の軸となっている新開地商店街はJR神戸駅に近い6丁目から神戸高速鉄道新開地駅前を経て地下鉄湊川公園駅に近い1丁目まで、南東方向から北西方向に長く伸びている。今回は1丁目と2丁目を重点的に歩いてきた。
引き続き、西天下茶屋の商店街から。
商店街周辺は戦前から市街化しているためモータリゼーションを全く考慮していない。そのため車で入ると一方通行や行き止まりで往生するどころか道そのものもまっすぐ敷かれて居ないので、えらい目に遭うのは必須。
住民の足はもっぱら自転車のみ。自転車の数だけはやたら多い。
阪神なんば線が開通した一方で大阪には未だに「南海汐見橋線」という超ローカル路線が細々と運行し続けていて、都会の喧騒とは無関係に忘れ去られたかのような佇まいを残している。
以前も汐見橋線に乗って芦原町、木津川、津守といった超意味不明ゾーンを巡ってきたわけだが、今回はさらにもう一つ先の「西天下茶屋」まで行くことにした。
この西天下茶屋というところが、凄まじくレトロな下町で。
西成区でも数少ない、戦災に遭わずに古い町並みが残る地区である。その昔はNHKの朝ドラ「ふたりっ子」のロケ地にもなったくらいの場所だ。
今回はビジュアル多めで「西天」の街の風景をお伝えするとしよう。
今年も阪神タイガースが優勝するかしないかという話になっていますが、野球に興味のない私としてはいつもどうでもいい話題なのだ。
しかし、阪神タイガースが優勝したときの「虎キチ」どもの大暴れについては、やはり気になる。
どうも、大阪人は誰もが阪神タイガースと一蓮托生で、ファンでなければ非国民(大阪民国において)扱いされるものだという間違った認識が植えつけられているが、もちろんそんな訳がない。
コアな「虎キチ」が居るのは、大阪市内でも、甲子園球場でもない。
その中間にある、尼崎だ。
大阪駅からたった10分の兵庫県。市外局番は大阪市内と同じ06。
なぜこの街が「兵庫県」なのかが尼崎市最大の謎だ。
天保山ハーバービレッジ、海遊館で有名な大阪市港区。
現在のように観光地化される前は、港湾労働者が多く住む下町だった。
大阪港の中心が南港に移ってからは、労働者の街としての活気は失われ、今では大阪ベイエリアという観光地めいたイメージが強い。
昔を知る港区民は、ここが西成に次ぐ巨大な港湾労働者の寄せ場の街でありガラの悪さで言えばナンバー2と警察が言うくらいの土地であったという事を知っている。
誰も知らぬ者は居ない、あの広域暴力団の山口組だって始点は港湾労働者の荷役派遣事業者(人夫出し)だった。そんな歴史的背景もあって、現在もこの界隈には暴力団事務所が多い。
だが現在では寂れ方が凄まじく、特に八幡屋商店街と、隣接する港中央市場、八幡屋市場を含んだ商業地は廃業した店があちこち虫食いのように穴を開けている。
地上を走る地下鉄中央線の車窓からも見下ろす事が出来る八幡屋商店街の入り口。
入り口の両側がパチンコ屋な時点でこの街の性格をよく表している。
ところが、この左側のパチンコ屋ですら廃業してしまった。
それだけ、活気が失われている。
少しこの商店街をうろうろしてみましょう。
僅か500メートル四方の土地に2万、3万もの人口がいると言われる西成釜ヶ崎。
東京都心ですら及ばぬ人口過密地域だ。
そんな釜ヶ崎には様々な衣食住のスタイルが存在する。
お洒落な店などは皆無だが、そのへんにこだわらなければ店の数は膨大に存在する。
山王・太子界隈に縦横無尽に広がる商店街は数万人もの西成の労働者の衣食住の需要を満たしている。それらは殆どが周辺地域の常識とはかけ離れた価格破壊をもたらしている。その実態を、少しだけお伝えしようと思う。
西成の歩き方レポートの続編です。初めからお読みの方はこちらからどうぞ。
数ある大阪DEEP案内のレポートの中で西成釜ヶ崎は最も多くのアクセスが今でもある。
これまで何度も現場に訪れて、そこに住まう労働者や身寄りの無い人間の暮らし、そして裏社会と密接に絡んだこの街の構造を傍から見守ってきた。
それでもまだ私にとっては、この土地で起こった事実のほんの一握りも知る事はできない。所詮は傍観者であり物見遊山、怖いもの見たさの「よそ者」なのだろうという思いがして、このままでは自分でも納得が行かない気がしてきたのだ。
連休中はずっと西成に居た。2日間だけだが、所謂「ドヤ」にも、今回初めて宿泊。
夏はまだ先なのに早くも暑苦しく匂いを放つ西成の街にどっぷり漬かって戻ってきた。
その結果をお伝えしようと思う。
西成の歩き方レポートの続編です。初めからお読みの方はこちらからどうぞ。
「漁港」という言葉を聞くと、皆さんはどんなイメージを思い浮かべるだろうか。和歌山だとか、若狭だとか、伊勢志摩だとか、遠い場所をイメージしてしまいがちではないだろうか。ところがどっこい、大阪市内にも「漁港」は存在する。
あまりに小規模で知られていないだけであって、きちんとした組織「大阪市漁業協同組合」まで存在し、大阪市内の漁師がその日獲れた魚を中央卸売市場に運んでいるのだ。大阪市のホームページにも、農業と漁業の概況について記されたページがあるので、参考にすると良い。平成15年の統計で、市内に約100名の漁業従事者が居る事がわかる。
大阪市内で「漁港」の体をなしている場所は、私が確認しただけで3ヶ所ある。港区八幡屋の三十間堀川、西淀川区の神崎川大和田漁港、そして今回訪れた此花区の伝法漁港の3ヶ所だ。
うち、伝法漁港は大阪市内でありながら、なかなか本格的な漁港の体裁を今に残す、貴重な場所である。
最寄り駅は阪神西大阪線の伝法駅だが、今回は西九条駅から市バスで春日出まで来て、そこから徒歩で向かった。