1トン爆弾の嵐から立ち上がった歓楽街
大阪の北東の玄関、京阪電鉄本線とJR環状線・東西線・学研都市線、地下鉄長堀鶴見緑地線の駅が集中するターミナル「京橋」。京街道から大阪の玄関口に架かる橋(橋の場所は駅から離れている)の名前から京橋の名がついた、その風格のある名前には程遠い、あまりにも猥雑な駅前の風景は、この京橋という街の性質そのものを表している。駅周辺の繁華街は都島区と城東区に跨っている。
「♪キョーバシは、ええとこだっせ」で始まる歌でおなじみのレジャービル「グランシャトー」が駅前に立ち尽くす。
建物を見た感じそのまま、フランス語で「大きな城」という意味の京橋のシンボルマーク的存在だ。終戦直後の闇市で財を成した台湾人実業家が作り上げたという。

京橋グランシャトービルは昭和46(1971)年のオープンの老舗。サウナ、中華料理店、ゲームセンター、カラオケ、パチンコ店、キャバレー香蘭などなど、京橋の一大レジャー拠点として、その地位を確固たるものにしている。
JRと京阪の駅の間の広場を大勢の通行人が通り過ぎる。その道端にはどこぞの馬の骨ともわからぬ謎のアーティストや歌手を目指す若者、いろんなパフォーマーが芸を見せびらかしている。ある意味奔放な街だが、もっぱらカオスな街である。

広場の床の何気ないマンホールは「ゴキブリマンホール」と呼ばれ恐れられている、大阪都市伝説の一つ。殺虫剤を注入すると、その中で繁殖したゴキブリが一斉に飛び出してくるさまがYoutube動画で公開され、瞬く間に有名になった。残念ながら今ではゴキブリは殺処分されている、はず。
駅前にはサラ金の社名が書かれたティッシュを渡してくるお姉さん、その数に比例するかのように背後にそびえるビルには凄まじい数の消費者金融会社のオフィスが、ウンコにたかる蝿のごとく群がり、これでもかと視界に入る。
大阪では戦前から都心で働き、郊外に住むというライフスタイルが定着している。明治・大正時代はただの田畑が広がるだけの田舎に過ぎなかったこの場所が、都心から郊外を結ぶ乗り換え口である京橋駅前に徐々に立ち飲み居酒屋などが増えだしたのが今の街の成り立ちだと言われている。
駅のすぐ東側の城東区は大正末期の大阪市域拡大で東成郡城東村から東成区に編入、後に城東区となる。その頃には紡績工場などが相次いで進出し、この付近もすっかり宅地開発が進み市街化していたと言われる。

当時の大阪城北側に「大阪砲兵工廠」があり、終戦までに幾度も拡大を繰り返し、アジア最大の規模の兵器工場となっていた。そこに莫大な数の労働者が兵器製造に従事していた。京橋駅前はそれらを受け入れる盛り場としてますます発展していたのだ。
ところが終戦前日の昭和20年8月14日の午後に京橋一帯は米軍のB29による一斉爆撃を受けることになる。標的は「大阪砲兵工廠」だった。日本軍の戦の要であった巨大兵器工場は一トン爆弾の嵐に見舞われ、跡形もないまでに破壊されてしまう。犠牲者が何人出たのか、それすらも今はわからない。
JR京橋駅の南口改札を出た所、大阪環状線の高架橋の下に、ひっそりと慰霊碑が建っている。

米軍が投下した一トン爆弾の一つが、この京橋駅のど真ん中に落ちた。爆弾は当時の城東線(現・大阪環状線)のホームを突き破り、その下の片町線(現・学研都市線)のホームで炸裂した。屋根の下なら大丈夫と、わざわざ避難していた乗客がそこには居た。全て吹き飛ばされた。
日本がポツダム宣言を受託し、敗戦を宣言する前日のことだった。
死者は分かっているだけでも200名を超えると言われているが、行方不明者を含めると7、800名は居るとされ、その実態は今でも分かっていない。兎角、悲惨な歴史の影を掲げる街なのである。
[map:34/41/34.065,135/32/13.566]
参考記事
asahi.com: (31)ネオン街 昭和の面影 大阪・京橋 - 新 風景を歩く - 関西
読売新聞:ひと駅 ひと物語 大阪環状線めぐり <14>
大阪市城東区のホームページ | 区のあらまし | 区の歴史
京橋駅爆撃
1|2ページ目に続く>
建物を見た感じそのまま、フランス語で「大きな城」という意味の京橋のシンボルマーク的存在だ。終戦直後の闇市で財を成した台湾人実業家が作り上げたという。
京橋グランシャトービルは昭和46(1971)年のオープンの老舗。サウナ、中華料理店、ゲームセンター、カラオケ、パチンコ店、キャバレー香蘭などなど、京橋の一大レジャー拠点として、その地位を確固たるものにしている。
JRと京阪の駅の間の広場を大勢の通行人が通り過ぎる。その道端にはどこぞの馬の骨ともわからぬ謎のアーティストや歌手を目指す若者、いろんなパフォーマーが芸を見せびらかしている。ある意味奔放な街だが、もっぱらカオスな街である。
広場の床の何気ないマンホールは「ゴキブリマンホール」と呼ばれ恐れられている、大阪都市伝説の一つ。殺虫剤を注入すると、その中で繁殖したゴキブリが一斉に飛び出してくるさまがYoutube動画で公開され、瞬く間に有名になった。残念ながら今ではゴキブリは殺処分されている、はず。
駅前にはサラ金の社名が書かれたティッシュを渡してくるお姉さん、その数に比例するかのように背後にそびえるビルには凄まじい数の消費者金融会社のオフィスが、ウンコにたかる蝿のごとく群がり、これでもかと視界に入る。
大阪では戦前から都心で働き、郊外に住むというライフスタイルが定着している。明治・大正時代はただの田畑が広がるだけの田舎に過ぎなかったこの場所が、都心から郊外を結ぶ乗り換え口である京橋駅前に徐々に立ち飲み居酒屋などが増えだしたのが今の街の成り立ちだと言われている。
駅のすぐ東側の城東区は大正末期の大阪市域拡大で東成郡城東村から東成区に編入、後に城東区となる。その頃には紡績工場などが相次いで進出し、この付近もすっかり宅地開発が進み市街化していたと言われる。
当時の大阪城北側に「大阪砲兵工廠」があり、終戦までに幾度も拡大を繰り返し、アジア最大の規模の兵器工場となっていた。そこに莫大な数の労働者が兵器製造に従事していた。京橋駅前はそれらを受け入れる盛り場としてますます発展していたのだ。
ところが終戦前日の昭和20年8月14日の午後に京橋一帯は米軍のB29による一斉爆撃を受けることになる。標的は「大阪砲兵工廠」だった。日本軍の戦の要であった巨大兵器工場は一トン爆弾の嵐に見舞われ、跡形もないまでに破壊されてしまう。犠牲者が何人出たのか、それすらも今はわからない。
JR京橋駅の南口改札を出た所、大阪環状線の高架橋の下に、ひっそりと慰霊碑が建っている。
米軍が投下した一トン爆弾の一つが、この京橋駅のど真ん中に落ちた。爆弾は当時の城東線(現・大阪環状線)のホームを突き破り、その下の片町線(現・学研都市線)のホームで炸裂した。屋根の下なら大丈夫と、わざわざ避難していた乗客がそこには居た。全て吹き飛ばされた。
日本がポツダム宣言を受託し、敗戦を宣言する前日のことだった。
死者は分かっているだけでも200名を超えると言われているが、行方不明者を含めると7、800名は居るとされ、その実態は今でも分かっていない。兎角、悲惨な歴史の影を掲げる街なのである。
[map:34/41/34.065,135/32/13.566]
参考記事
asahi.com: (31)ネオン街 昭和の面影 大阪・京橋 - 新 風景を歩く - 関西
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